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板橋区仲宿にある軍事遺跡、板橋憲兵分隊跡を歩いてきました。
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現在地は板橋区本町の旧中山道、縁切り榎前交差点です。
交差点直近には板橋区の登録文化財である、縁切榎という名の樹が立っています。
縁切り榎は江戸時代から「嫁入りの際にこの樹の下を通ると縁が切れる、短くなる」と恐れられたいわくつきの樹です。
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文久元(1861)年の和宮下向の際には、わざわざ榎を避けるためのう回路が作られるほどであったという縁切り榎。
しかし当初は男女間の縁を切るものでしたが、現在では病気や悪運など良くないものとも縁が切れる榎として、毎日様々なものと縁を切りたい人々が御利益を求めて訪れるという。
都内のみならず全国、果ては海外から参拝しにくる人もいるそうです。
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江戸時代の縁切り榎は、男女の悪縁を切りたい時や断酒を願うときに樹皮を削ぎ取って煎じ、密かに飲ませるとその願いが成就するとされ、霊験あらたかな神木として庶民の信仰を集めました。
そんな逸話があるためか、縁切り榎はぐるぐる巻きになっていて樹皮を削ぎ取れないようになっています。
榎の樹皮を煎じて飲ませたところで、悪縁は切れないことなど現代人ならわかりそうですが、それでも削ぎ取らずにいられない人が多いのでしょうか。
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縁切り榎のある神社の境内には、木片がモルタルで固められた石碑が建っています。
こちらは昭和40年代に切られたという2代目の「縁切り榎」の木片だそうで、今立っている縁切り榎は江戸時代から数えて3代目の縁切り榎です。
ちなみに初代の縁切り榎は明治17(1884)年の板橋宿大火で焼けてしまい、その後2代目が植えられたため、「神木」と呼ばれた初代縁切り榎と今の榎はあまり関係がないような気もします。
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しかし榎自体は関係がなかったとしても、この場が人々の信仰を集めていることは、奉納された膨大な数の絵馬を見ればわかります。
絵馬は日付を見るとみな今年に入ってからのものばかりで、祈願者の住所は日本全国各地からとなっていました。
みんなそれぞれ、色んな悪縁を切りたいんですね…。
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絵馬の中に「貧乏と縁を切りたい」と祈願するものがありました。
貧乏と言えば、昭和初期までにかけてこの縁切り榎から宿場はずれの清水町までの坂道一帯は上宿岩の坂というスラムだったといわれています。
上宿岩の坂は宿場人足など底辺労働者のたまり場で、今で言う山谷のドヤ街のような自炊長期宿泊者の町だったという。
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岩の坂は緩やかに続く坂とスラム、そして縁切り榎の存在で人々が避けて通っていたことから「いやな坂」とも呼ばれていました。
岩の坂では昭和5(1930)年、板橋貰い子殺し事件が発覚していますが、スラムの住民はよそで生まれた「いらない子」を手数料付きでもらい、その後地域ぐるみで年間30~40人くらいの子供を「処理」していたと言われています。
岩の坂のスラムは太平洋戦争の戦火により壊滅しその面影は残っていませんが、その頃の縁切り榎は、親が「いらない子」と縁を切る場所であり、岩の坂に捨てられた「いらない子」がこの世と縁を切る場所であったのかもしれません。
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さて、ここで板橋宿の昔の地図を見てみましょう。
上は板橋応援サイト・ブリッジボードというサイトから抜粋した中山道板橋宿の古地図です。
大正初期から昭和初期頃までの地図と、記載があります。
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旧中山道を示すオレンジラインの一番左端に岩の坂の地名と、かっこ書きでいやな坂の記載があり、本当にこう呼ばれてたんですね。
岩の坂の右に石神井川を渡す板橋があり、さらに橋を渡った先の下側に、「板橋憲兵分隊」との記載が地図上に落ちています。
今回はこの板橋憲兵分隊跡地を訪問したいと思います。
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というわけで前置きが長くなりましたが、縁切り榎・岩の坂から旧中山道を南下し、板橋を渡って仲宿までやってきました。
北端で石神井川に面する仲宿は中山道板橋宿の中心部でしたが、このあたりも岩の坂のスラムと同じく太平洋戦争の戦火で被災し焼失したようです。
古地図によると、この旧中山道の西側に板橋憲兵分隊があったことになります。
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見ると旧中山道に垂直に交わる細い路地の入り口に、ぽつんと一基だけ古びた門柱が建っています。
この門柱は板橋区が出している板橋区平和祈念マップで「憲兵隊門柱」として紹介されているものです。
この場所にかつて板橋憲兵分隊の隊門があり、門の先には憲兵分隊の宿舎などがあったようです。
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ところどころが破損してボロボロな、年季を感じさせるコンクリート造りの門柱。
門柱の裏側には、門を留めていたと思われる金属片がいくつか飛び出しています。
石神井川寄りの仲宿は焼失したものの板橋憲兵分隊は被災を免れたようで、戦後は憲兵分隊の馬小屋に外地からの引揚者が住んでいたそうです。
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路地の突き当たりは板橋区立の仲宿保育園ですが、そこが板橋憲兵分隊の跡地でしょうか。
憲兵隊は反軍反戦の声を圧迫するために、民間の隣組や翼賛壮年団のなかに「憲兵連絡者」という名の密告者を求め、この密告によって数知れない人々が理由なくして捕らわれたという。
憲兵による言論弾圧や親しい者同士の密告、貰い子殺しが日常的に行われる社会とは、金輪際縁を切りたいものですね。
(訪問月2019年10月)