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東京都小金井市にあった軍事施設、陸軍技術研究所跡を歩いてきました。
キャプチャ
写真は国土地理院のホームページから抜粋した、昭和23(1948)年米軍撮影の武蔵小金井駅北西付近の小金井の空中写真です。
太平洋戦争中、武蔵小金井駅の北西部には陸軍兵器の研究や試験を行う巨大な軍事施設「陸軍技術研究所」がありました。
陸軍は昭和15(1940)年から昭和17(1942)年にかけて小金井の広大な農地を買収し、第一、第二、第三、第五、第七、第八の六つの陸軍技術研究所を都心部から移転させてきたという。
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現在地は小金井市貫井北町4丁目にある国立研究開発法人情報通信研究機構前です。
情報通信研究機構はこの地に造られた6つの陸軍研究所のうち、通信兵器の研究を担当する第五陸軍技術研究所の跡地に作られた総務省所管の研究開発法人です。
第五陸軍技術研究所と情報通信研究機構はどちらも同じ「通信」系の研究機関ですが、二つの機関には何か繋がりがあるのでしょうか。
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情報通信研究機構の北側には東西に伸びるサレジオ通りが走っており、この通りを300mほど東へ歩くと左手にサレジオ小学校・中学校が見えてきます。
サレジオ小学校・中学校を含む東京サレジオ学園は物理的基礎研究を担当する第七陸軍技術研究所の跡地にできた教育機関です。
昭和21(1946)年4月、戦争で親や家を失った子供たちのために成増飛行場の兵舎で開設された東京サレジオ学園ですが、成増飛行場に進駐してきた米軍がグラントハイツを建設し始めたからでしょう、翌年5月ここ第五陸軍技術研究所の跡地に移転してきています。
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サレジオ通りをさらに100mほど東へ歩くと、今度は右手に東京学芸大学の北門が見えてきます。
東京学芸大学も陸軍技術研究所の跡地にできた大学で、現在の大学中心部が兵器材料の研究を担当する第八陸軍技術研究所、大学東部が工兵器材・火薬具の研究を担当する第三陸軍技術研究所だったそうです。
少し前までは陸軍技術研究所の建物が教室や部室に転用されそのまま残っていたそうですが、今はもう残っていないとのことです。
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東京学芸大学北門からさらに東へ350mほど東へ歩いていくと、学芸大の北東端「プール前」というバス停のある交差点に出ました。
周辺にプールはありませんが、これはかつて東京学芸大学の東側に残されていた、陸軍技術研究所の上陸用舟艇や水陸両用戦車のテストのためのプールの名残だそうです。
戦後、研究所の試験用プールは水泳用のプールに改造され、1960年代くらいまで学芸大や地域の学生が使っていたそうですが、それも取り壊されてしまい今はバス停にその名を残すのみとなっています。
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プール前からさらに600mほど北大通りを東に歩いていくと右手にダイエー小金井店・イオンフードスタイルの店舗が見えてきて、その東隣は植木畑になっています。
小金井市は植木の栽培が盛んで、かつては「東京の安行」と言われるほどだったという。
この植木畑沿いに、小金井市教育委員会が建てた案内板と陸軍技術研究所の軍用地境界標石が残っています。
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植木畑の東側を走る生活道路に、「陸軍技術研究所境界石杭」と題された小金井市教育委員会設置の案内板が立っています。
真新しいもので、設置月は平成31年3月と最近建てられたばかりのもののようです。
ちょっとわかりにくいですが案内板の足下には、陸軍境界石が埋まっていました。
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かなり風化が激しく、かろうじて「軍」と読める陸軍境界石です。
この植木畑から西側は太平洋戦争中、銃砲や弾薬、馬具を研究開発していた第一陸軍技術研究所だったそうです。
敗戦によって食糧難となった戦後の困難期に、陸軍技術研究所の跡地の一部は農地として開墾され広大な畑となったようで、植木畑はその歴史の名残と思われます。
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小金井市教育委員会の案内板には、小金井市文化財センターが所蔵するもう一つの陸軍技術研究所の軍用地境界石が描かれています。
石杭は全長100cm、「陸軍」と刻んだ上部20cmを地上に出し、残り80cmの下部が地中に埋まるこんな形をしているそうです。
陸軍境界石ってこんなに長いんですね。
そりゃ撤去されずに残されるものもあるだろうな、と変に納得してしまいました。
(訪問月2019年10月)