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愛知県名古屋市中区にある神社、愛知県護国神社を歩いてきました。
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愛知県護国神社は、名古屋市営地下鉄名城線市役所駅から東へ約500mの位置にある神社です。
戊辰戦争から第二次世界大戦にいたる近代戦争の、愛知県ゆかりの戦没者9万3千余柱が祀られています。
大正時代には名古屋城の城北練兵場、現在の名城公園の場所に鎮座していましたが、昭和10(1935)年に現在地へ遷ってきました。
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昭和33(1958)年に再建された、鉄筋コンクリート造りの社殿。
愛知県護国神社の初代社殿は昭和20(1945)年3月19日の名古屋大空襲で焼失してしまいました。
二度と燃えないように、との思いから鉄筋コンクリートで再建されたそうです。
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愛知県護国神社には多数の慰霊碑があり、社殿東側の森「昭和の森」の中に密集して建立されています。
左手前の石碑は歩兵第二百二十八連隊・歩兵第二百二十八大隊の慰霊碑、右奥の銀色の塔は満州三〇三部隊(輜重兵第二十九連隊)の慰霊碑です。
戊辰戦争や西南戦争、日清・日露戦争の慰霊碑もありますが、圧倒的に多いのが中国方面をはじめフィリピン方面、マリアナ方面、ビルマ方面、ニューギニア方面など各方面に多くの将兵が派遣され、過酷な状況で多くの犠牲者を出したアジア・太平洋戦争の各部隊の慰霊碑です。
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建立されている慰霊碑で、その部隊にまつわる物が一緒に置かれているものがいくつかありました。
こちらは独立野砲兵第十一連隊・独立野砲兵第二連隊の慰霊碑。
慰霊碑の前には、部隊のものと思われる砲弾が置かれています。
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右から、満州鞍山独立守備隊第二中隊慰霊碑、陸軍少年飛行兵慰霊顕彰之碑、満州開拓義勇軍慰霊碑。
中央の陸軍少年飛行兵慰霊顕彰之碑は、石碑の上に陸軍機のプロペラが立っています。
実機のものだそうですが、なんの機体のものかはよくわかりません。
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巨大な錨の、パラオ海軍部隊慰霊碑。
この錨は駆逐艦の主錨ですが実戦で使用されたものではなく、住友重機より未装備だった在庫品を寄贈されたものだそうです。
帝国海軍の重要根拠地であったトラックが昭和19(1944)年2月のトラック空襲により無力化されると、パラオはトラックに代わる前進根拠地になりました。
しかしそのパラオも、同年3月のパラオ大空襲で多数の支援艦船、輸送船、航空機を失い、防衛施設も破壊されて基地機能を失ってしまいます。
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これら慰霊碑が密集する「昭和の森」の入口付近に、巨大な砲弾を立てた慰霊碑が門番のごとく建立されています。
こちらは日本海軍の戦闘艦の中で最も有名と思われる戦艦「大和」の記念碑です。
台座の上には東海地区戦艦大和会の会長で、大和の沖縄特攻時における乗組員で生存者の一人だった故・清水芳人氏が奉納した戦艦大和の主砲弾が安置されています。
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砲弾は45口径46センチ砲の九一式徹甲弾で、長さは1955mm、重量は1460kgあります。
戦艦大和はこの巨大な砲弾を、42キロ先の敵艦に向かって発射することができ、戦艦同士の戦いであれば敵艦の射程外から一方的に攻撃することができました。
あまりに大型だったため主砲を発射するときに甲板にいると、発射時の爆風で吹き飛ばされて死亡する危険があったという。
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台座側面に取り付けられた碑文です。
大日本帝国が建造した、世界に誇る史上最大最強の戦艦であった大和。
しかし航空機による戦闘が主になった太平洋戦争においては活躍の機会がなく、大和はすでに戦争の趨勢が決まっていた太平洋戦争末期の昭和20(1945)年4月、軽巡洋艦矢矧や駆逐艦初霜などと沖縄に向け水上特攻作戦を決行し、同年4月7日、坊ノ岬沖でアメリカ軍機の猛攻を受けてあえない最期を遂げてしまいました。
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太平洋戦争の開戦から8日後、帝国海軍の期待を一身に背負ってに就役し、活躍の機会がないまま最期は一億総特攻のさきがけとして沈んだ戦艦「大和」。
史上最大最強の戦艦ながら時代に合わず発揮できなかったその能力は、世界を相手に戦った大日本帝国興亡の象徴でした。
大和は艦とともに沈んだ二千七百余名の様々な想いをその身に抱えながら、今も鹿児島県の坊ノ岬沖に沈んでいます。
(訪問月2019年12月)