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岐阜県各務原市にある博物館、岐阜かかみがはら航空宇宙博物館を歩いてきました。
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飛行機を見せろという子供たちを連れて、航空自衛隊岐阜基地のすぐそばにある岐阜かかみがはら航空宇宙博物館にやってきました。
この博物館では各務原が日本航空産業の発展にどのような役割を果たしてきたかを、航空機の展示を通じて学ぶことができます。
現在の航空自衛隊岐阜基地は、大正6(1917)年に開設された各務原陸軍飛行場をその前身としており、現在運用中の飛行場としては日本で最も古い歴史があります。
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この種の博物館としては珍しく、敷地内には食事処やキッズルーム、公園が併設されています。
チケットを持っていれば再入館ができるので、入館中に幼児がぐずりだしても安心。
我が家の子供たちが「帰りたい」と言い出すときはたいてい、お腹が空いた時です。
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博物館の展示場は2層構造になっていて、1階がたくさんの航空機やヘリコプターが並ぶ航空エリア、2階がロケットや宇宙実験棟「きぼう」、小惑星探査機「はやぶさ2」の模型が展示されている宇宙エリアになっています。
展示物の特徴として、各務原で生産されたとか、各務原で試験飛行が行われたとか、この地に縁のある機体を中心とした展示がされています。
特に航空エリアでは、戦前・戦中の航空機の実機や復元機体、エンジン、計器類等が展示されているのが見所です。
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各務原で量産された最初の飛行機、陸軍乙式一型偵察機(サルムソン2A2)の復元。
サルムソン2A2は第一次世界大戦末期のフランスの主力偵察機で、大正7(1918)年川崎造船所(現・川崎重工業)がフランスのサルムソン社から製造権を取得して国産化に取り組みました。
川崎の製造第一号機は大正11(1922)年11月9日、各務原飛行場で初飛行に成功し、その後昭和2(1927)年までに各務原で300機が生産され、陸軍の偵察機として使用されています。
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続いて第二次世界大戦における日本海軍の主力艦上戦闘機「零式艦上戦闘機」の試作機・海軍十二試艦上戦闘機1号機の実物大模型。
昭和14(1939)年の各務原での初飛行以来改良が重ねられ、昭和15(1940)年に零式艦上戦闘機として制式採用されました。
零戦は主任設計者・堀越二郎の空気抵抗と重量を極限まで抑えた設計思想で海軍の要求する航続距離と格闘性能を両立させた傑作機であり、敗戦まで海軍航空隊の主力として日本航空機最多の一万機以上が量産されています。
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アメリカ本土爆撃を目的とした川崎航空機の陸軍遠距離爆撃機キ91に搭載予定だったという三菱の空冷星型18気筒エンジン、ハ42(ハ214)。
ハ42(ハ214)は陸軍四式重爆撃機「飛龍」搭載エンジンのハ104を再設計して試作されました。
キ91はアメリカ陸軍戦略爆撃機B29をしのぐ巨大機になる予定でしたが、戦況の悪化により開発が中止されています。
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太平洋戦争中の日本軍戦闘機で唯一の液冷エンジン機、陸軍三式戦闘機「飛燕」の二型。
「飛燕」は昭和18(1943)年に制式採用された陸軍戦闘機で、川崎航空機によって各務原で約2800機が量産されました。
そのうち二型は、「飛燕」一型のエンジンなどを改造した機体で、約100機が各務原で製造されています。
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この二型は、昭和19(1944)年に川崎航空機岐阜工場で作られた試作17号機で、現在世界で唯一存在する「飛燕」の完全な現存機です。
太平洋戦争の敗戦後、多くの日本軍機が米軍に接収されスクラップ処分になりましたが、この「飛燕」二型は奇跡的に米軍横田基地の屋外展示として残されました。
やがて日本に返還され各地を転々とした後、2015年9月に故郷である各務原に帰り、修復後にここ岐阜かかみがはら航空宇宙博物館に展示されています。
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三式戦闘機「飛燕」二型に搭載された航空機用液冷倒立V型12気筒エンジン、川崎 ハ140。
整備困難で「飛燕」を悩ませたことで知られる液冷エンジン・ハ40の出力向上型ですが、そのハ40以上にハ140は生産が難しいものでした。
このため大戦末期にはエンジンの生産が追いつかず、エンジンのない三式戦闘機「飛燕」二型の首無し機体が常時200機程度、川崎工場内に滞ってしまう事態が発生しています。
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この異常事態に対し、エンジンのない「飛燕」にやむを得ず空冷エンジン・ハ112Ⅱを搭載してみたら、これが意外な高性能を発揮して整備性・信頼性も比較にならないほど向上し、空冷エンジンを積んだ「飛燕」はキ100・五式戦闘機として制式採用されました。
対戦闘機戦闘に向いていなかったという飛燕ですが、苦肉の策として生まれた五式戦闘機は空戦能力に優れ、Pー51マスタングやF6Fヘルキャット、F4Uコルセアなどアメリカ軍の新鋭戦闘機と互角に戦うことができたという。
B29による日本本土空襲や昭和19(1944)年12月7日の昭和東南海地震などによって軍需工場が激減したため五式戦闘機は終戦まで約400機が生産されるにとどまり戦局に影響を与えませんでしたが、五式戦闘機がもう少し早く登場していたら戦局も変わっていたかもしれない、と語られています。
(訪問月2019年12月)