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岐阜県不破郡関ケ原町の軍事遺跡、名古屋陸軍兵器補給廠関ケ原分廠跡を歩いてきました。
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関ケ原鍾乳洞を訪問した折、駐車場近くに古いこんな看板を見つけました。
関ケ原観光(三社)案内図と題がつけられており、これによるとかつてこの周辺には関ケ原ウォーランド関ケ原鍾乳洞の他に「関ケ原メナードランド」という遊園地があったようです。
しかし関ケ原メナードランドは化粧品製造販売業のメナードの子会社・株式会社メナード関ケ原ランドが運営した遊園地で、2001年1月に閉園となっています。
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関ケ原メナードランドの施設は2010年にすべて取り壊され更地となっていますが、跡地には山腹にコンクリート塀をつけたような謎の建造物が残っています。
この建造物は、大正3(1914)年に開設された名古屋陸軍兵器補給廠関ケ原分廠、通称「玉の火薬庫」にあった半洞窟式火薬庫の跡であると言われています。
玉の火薬庫は周囲6キロメートル、面積450ヘクタールを誇る当時東洋最大規模の火薬庫で、第九師団第19連隊の管理下で終戦まで約30年間運用されました。
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こちらも関ケ原メナードランド跡に残る玉の火薬庫の半洞窟式火薬庫ですが、火薬庫にしては目立ちすぎなブルーの塗装がされています。
関ケ原メナードランドは玉の火薬庫の跡地に造られた遊園地で、この半洞窟式火薬庫は同遊園地の巨大地下施設に転用されていた時期があったという。
閉園に伴い関ケ原メナードランドの遊戯施設は撤去されましたが、半洞窟式火薬庫だったところは強固で取り壊せなかったのか、そのまま残されています。
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開けっ放しの扉の上に「13」とナンバリングのついた半洞窟式火薬庫跡。
この半洞窟式火薬庫は当時から15棟あり、今も15棟そのまま残されているようです。
扉も古そうですが、これも当時からのものでしょうか。
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関ケ原メナードランド跡前を走る県道229号線を挟んだ北側は深い森になっていて、その中に土塁とそれをくぐり抜ける古いトンネルがあります。
この土塁は玉の火薬庫の火薬倉庫用土塁で、万一の際火薬庫同士の誘爆に備えて設けられたものだそうです。
玉の火薬庫の敷地内には、一棟ごとにこうした土塁で囲い防火された倉庫「地上清涼火薬庫」が総数28棟あって、各棟には70~80トンの火薬が貯蔵されていたという。
キャプチャ
ちなみにこの写真は敗戦後の昭和22(1947)年に米軍が撮影した当地の空中写真(国土地理院のホームページより抜粋)です。
右斜め上から左斜め下にかけて走る県道229号線沿いには、多数の土塁で囲まれた地上清涼火薬庫が並んでいるのがわかります。
総数28棟の地上清涼火薬庫は、県道を挟む形で7か所にまとまって建ち並んでいました。
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こちらは関ケ原メナードランド前から県道229号線を東へ約750m進んだところにある石組みの門柱です。
かつてこの場所には玉の火薬庫のレンガ造りの営門があったとのことで、この門柱はその名残とのことです。
もともとは道の両側にあったようですが、諸事情により片側に追いやられてしまったとか。
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門柱のそばには歩哨が警戒する立哨台も残されています。
この立哨台、本来この場所にあったものではなく、以前は先ほどの火薬倉庫用土塁の近くにあったもののようですが、何らかの事情により営門前に移設されてきたようです。
この辺りはきれいに整備されているし、玉の火薬庫を観光資源化する動きでもあるのかもしれません。
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玉の火薬庫の営門跡から県道229号線を西へ約1km進んだところには、関ケ原鍾乳洞へ向かう右折ポイントがあります。
関ケ原鍾乳洞の看板の下には、「旧陸軍火薬庫跡」の看板が後付けみたいな感じで取り付けられていました。
これを見るにやはり火薬庫を観光資源にしようという動きがあるようですが、看板右上に小さく「火薬庫は3月~公開予定です」とあります。
うっ、しまった。訪問時は2月でした。
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交差点を右折して150mほど進むと、左が関ケ原鍾乳洞へ向かう道、右が車両進入禁止の送電鉄塔へ向かう小道という交差点に出ました。
交差点のところには、再び歩哨が警戒・監視していた立哨台が建っています。
こうした立哨台は営門前など火薬庫内の主要な場所7か所に設置され、庫内のシンボルになっていたという。
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立哨台から送電鉄塔へ向かう小道に入ってすぐ右手には、洞窟式火薬庫がふたつ並んでいます。
こちらは手前にある第二洞窟式火薬庫で、この先には第一洞窟式火薬庫があります。
第二洞窟式火薬庫は周囲の土が崩れかけており、火薬庫の上に土を盛ったものとわかります。
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立哨台から関ケ原鍾乳洞へ向かう道のすぐ左手には、第三洞窟式火薬庫があります。
この周辺には第一から第五までの五つの洞窟式火薬庫があり、すべて現存しています。
この火薬庫は扉が開いており、中がちょっと覗けるようになっていました。
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かまぼこ型をした第三洞窟式火薬庫の入口。この奥が火薬を貯蔵する巨大な火薬倉庫になっています。
洞窟式火薬庫は小山を掘った後、そこにコンクリートを流し込んで構築されており湿気対策が求められます。
よって湿度や温度変化から火薬を守るため、倉庫の周囲に人が通れる通路を設けて通気性をよくしており、魔法瓶のような二重構造になっています。
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こちらは第四洞窟式火薬庫。
第三洞窟式火薬庫から関ケ原鍾乳洞方向へさらに70メートルほど進んだところにあり、関ケ原鍾乳洞歓迎アーチのすぐ手前左側です。
これら洞窟式火薬庫の上部は山土で覆った後に植栽されており、山林のごとくカモフラージュされていました。
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歓迎アーチの先左手には最後の第五洞窟式火薬庫があります。
入り口のシャッターが下りていますが、第五のみ一部内部見学が可能とのことです。
3月以降の暖かい時季に訪問していれば、見学することができたんでしょうが…残念です。
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第五洞窟式火薬庫のすぐ隣にはまたも立哨台があり、ここは記念撮影ポイントになっていました。
立哨台をバックに撮るおススメの記念撮影ポイントだそうですが、これをバックに撮ろうと思う人がどれほどいるかはちょっと疑問ですかね。
玉の火薬庫の遺構は戦後、そのほとんどが取り壊されてしまいましたが、わずかながらに残された戦争遺跡が、当時関ケ原が巨大な火薬庫であった歴史を物語っています。
(訪問月2020年2月)