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東京都北区西ヶ原にあった精神病院、王子脳病院跡を歩いてきました。
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息子と一緒に、東京メトロ南北線西ヶ原駅近くにある北区立飛鳥中学校にやってきました。
武蔵野台地の東縁に位置するこの中学校があるところには、かつて帝都東京を代表する貝塚がありました。
西ヶ原貝塚と呼ばれたこの貝塚は、ここ飛鳥中学校の校庭を中心に東西約150メートル、南北180メートルという大規模なものであったという。
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飛鳥中学校の校門直近にある、西ヶ原貝塚についての案内板です。
西ヶ原貝塚は飛鳥中学校の南に位置する昌林寺の境内まで広がっているそうです。
以前訪れた昌林寺、あの謎の区画は西ヶ原貝塚発掘のためのものだったのかもしれませんね。
キャプチャ
さて、明治後期から昭和初期にかけて、北区立飛鳥中学校があるところには「王子脳病院」という精神病院がありました。
王子脳病院は明治34(1901)年、本郷竜岡町の旅館経営者だった小峰善次郎によって設立された私立病院です。
上は西ヶ原周辺の古地図ですが、昌林寺の北側、現在の飛鳥中学校のあるところに病院のマークとともに「王子脳病院」があるのがわかります。
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王子脳病院は大正12(1923)年に火災で病棟が半焼するなどしていますが、大正14(1925)年新たに敷地内に内科・精神科の小峰病院を建てるなど昭和初期まで徐々に規模を拡張しかなり大きな病院であったようです。
しかし王子脳病院は、昭和20(1945)年4月の太平洋戦争末期に発生した城北大空襲によって全焼する被害を受けました。
敗戦後、王子脳病院は小峰病院とともに廃院となりましたが、同病院の付属研究機関であった小峰研究所が飛鳥中学校の北側に建つ東高駒込ペアシティ1階に今も残っています。
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こちらは東高駒込ペアシティの北隣に建つ精神病院、西ヶ原病院です。
金網で覆われた屋上がいかにも精神病院という感じがしますね。
この精神病院も元・王子脳病院長が戦後に建てた病院とのことで、西ヶ原病院のホームページによれば、王子脳病院の焼け跡に建てた自宅で病院の患者たちと寝食をともにしながら再建したという。
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東高駒込ペアシティの南側には東西に走る細い路地があります。
途中から急に道が狭くなるので、人通り・車通りがほとんどなく寂しい道です。
路地の、ちょうどペアシティ裏手の駐車場が途切れて道が狭くなる辺りの右側に、二つの古びた門柱が建っています。
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門柱は消えかかっている「東京都北区立飛鳥中学校」の表札を掲げた門柱で、門の先は密集する戸建住宅の間を通り、飛鳥中学校の通用門へと繋がっています。
しかしこの門は門代わりの蛇腹がついていますが、鎖で巻き付けられていて今は使われていないようです。
この謎の通路は、もともと王子脳病院の正門へと通じる通路であったそうで、当時の雰囲気を残していると言われています。
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明治時代の後期、帝都東京15区と府下の境界周辺では東京脳病院(田端脳病院)、戸山脳病院、保養院、巣鴨脳病院、青山脳病院、新宿脳病院といった脳病院の開設ラッシュがあったという。
これら脳病院の多くは写真で見る限り瀟洒な洋館的建物であったようで、大正12(1923)年の半焼以降に再建された王子脳病院も洗練されたネオ・ゴシック様式鉄筋コンクリート造の豪華な病院だったそうです。
まだまだ精神病というものが一般に理解されず、有効な治療法もなかったこの時代、患者を集めるにはなにより見た目が大切だったのかもしれませんね。
(訪問月2020年2月)

【以下は2021年8月13日追記】
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飛鳥中学校のリノベーション改修工事に伴い、通路が壊されてしまいました。
実質使ってない通路で仕方ないとはいえ、これはちょっと残念です。

【以下は2023年12月11日追記】
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飛鳥中学校から約50m南、谷田川通り方向に下りていく坂の途中(西ヶ原三丁目7番)に、古い煉瓦塀を発見しました。
上に鍰煉瓦が乗っていることから、下の煉瓦塀は相当古いものかと思われます。
住民の方に聞いたところ、この煉瓦塀の北側にはかつて日産の寮があったそうですが、それ以前のことは分からないそうです。
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最初、王子脳病院跡地である飛鳥中学校から少し離れていることから、関係ない煉瓦塀だろうと思っていましたが。
王子脳病院はアジア・太平洋戦争末期の城北大空襲で全焼するまで規模を拡大していたという。
意外と関連している遺構なのかもしれませんね。が、詳細は不明です。