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埼玉県ふじみ野市の軍事遺跡、東京第一陸軍造兵廠川越製造所跡を歩いてきました。
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現在地はふじみ野市上野台にある埼玉県ふじみ野市立福岡中学校前です。
時刻はまだ夜明け前ですが、宿直の方によるものでしょうか、校舎の一部に灯りが点いていました。
ふじみ野市立福岡中学校の近辺は一部で心霊スポットと言われていますが、それは戦前この一帯が陸軍の火薬製造所であったことに由来します。
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上の地図は昭和17(1942)年に帝国陸軍が撮影した上野台周辺の空中写真です。(国土地理院のホームページより抜粋)
現在の福岡中央公園から福岡中学校、ふじみ野市役所、大日本印刷上福岡工場までの広大な敷地には、昭和12(1937)年から第二次世界大戦に敗北した昭和20(1945)年まで陸軍の弾薬工場である陸軍造兵廠川越製造所がありました。
陸軍造兵廠川越製造所は帝都の十条台にあった陸軍造兵廠東京工廠(東京陸軍第一造兵廠)の規模拡大のために作られた軍需工場で、銃弾や雷管など火薬類を製造しており前述の中学校心霊スポットの噂は、火薬の製造中に大爆発があったことを理由としています。
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広大な陸軍造兵廠川越製造所の敷地境界線上には、当時の軍用地境界を示す境界標石が残っています。
こちらは福岡中央公園の南を走る桜通り沿いに残る「陸軍用地」とはっきり読める軍用地境界標石です。
当時の境界は現在の桜通りの外側だったようで、記載文字は道路側に背を向けていました。
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道路側に当たる境界標石の背面には、縦に漢数字が刻まれています。
「四六九」と記載がありますが、これは通し番号でしょうか。
豊島ドック跡にあった境界標石には横にアラビア数字が刻まれていましたが、色んな境界標石がありますね。
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こちらはふじみ野市立福岡中学校の正門から南へ約200メートル歩いたところにある軍用地境界標石。
こちらも当時の軍用地境界は道路の外側だったようで「陸軍用地」の記載文字は道路に背を向ける形になっており、文字面は住宅の塀にめり込んでいて見えません。
代わりに背面に当たる道路側には「四一」と、先ほどの境界石と同じような通し番号が書いてありました。
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陸軍造兵廠川越製造所は操業当初、約7万6千坪(約25万1千㎡)の敷地面積でしたが、戦争の激化に伴い規模が拡大され、最終的には16万5千坪(約55万㎡)に及んだという。
広大な敷地内には工場が建ち並び、最盛期には約8000人が兵器の製造に当たったと言われています。
写真は福岡中央公園の南に位置する「官舎公園」という、ここにかつて陸軍造兵廠川越製造所の勤務員の官舎でもあったのかと思わせるような名前の小さな公園です。
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官舎公園の一角に軍用地境界標石が建っていて、「陸軍用地」の記載文字は、官舎公園の内側を向いています。
官舎にも境界標石があったのでしょうか?
しかし境界標石の向きを考慮すると、何らかの理由によりどこかから移設されてきたものかもしれませんね。
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陸軍造兵廠川越製造所の跡地には、戦後ふじみ野市役所を始めとする官公署も建設されています。
市役所前交差点付近に建つふじみ野市立上福岡公民館の前庭には、「陸軍用地」と記載のある軍用地境界標石が建っていました。
境界標石の向きや位置から考えて、こちらも移設されたものであるような気がします。
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市役所前の交差点から市役所通りを北へ300mほど北上すると、右手に大日本印刷上福岡工場の通用門が見えてきます。
大日本印刷上福岡工場も、戦後に陸軍造兵廠川越製造所跡地の北端に当たる場所に建てられた工場です。
この通用門から南へ50mほどいったところには同工場の大きな正門があり、小さな通用門は現在使われていないように見えますが、ひょっとすると陸軍造兵廠川越製造所時代の門なのかもしれませんね。
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通用門から北側の同工場敷地境界にかけて、やや低めの白い塀が広く展開していますが、この塀は陸軍造兵廠川越製造所の軍用地境界塀であったと言われています。
かつてこの塀の中では、動員された川越中学校や福岡国民学校の学徒や女子挺身隊が弾薬を作り、技術の未熟からか爆発事故が度々起こったという。
動員されて慣れない作業で弾薬を作り、事故を起こして命を落とした人々の無念の思いが、今も残っていたとしても不思議ではないのかもしれません。
(訪問月2020年3月)