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栃木県宇都宮市にある教会、カトリック松が峰教会を訪問してきました。
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休日を利用して栃木県の県庁所在地、宇都宮市にやってきました。
東京からは電車利用でも車利用でも、だいたい二時間くらいと、日帰りでも充分やってこれる距離です。
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宇都宮は古来より北関東の要衝として重要な地域でした。
宇都宮市街地には宇都宮城(復元)がありますが、その歴史は平安時代まで遡るという。
その重要度は近代になっても変わることはなく、太平洋戦争に敗北するまで宇都宮には日本陸軍第14師団の師団司令部や、宇都宮陸軍飛行場など軍事施設が集まっていました。
有名な宇都宮の餃子は、中国大陸から帰国してきた第14師団の兵隊たちが、満州で主食であった焼餃子を広めたことがはじまりとも言われています。
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そのような軍事施設が多数あったせいでしょうか。
宇都宮市街地は太平洋戦争において、終戦の年の1945年7月12日深夜から翌日未明にかけて、アメリカ陸軍戦略爆撃機B-29による大空襲にあい、市街地の65%が罹災し600余名の死者を出してしまいます。
写真は宇都宮市街地の中心にある大イチョウの木ですが……
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大イチョウは宇都宮大空襲の際、黒こげになるほど焼けてしまったという。
しかし翌年には新芽をだし、復活。
空襲にも負けなかった大イチョウの存在は宇都宮復興のシンボルになり、今もなお宇都宮の中心で街を見守り続けています。
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その大イチョウのすぐ近くに、前面に双つの塔をもつ立派な教会があります。
カトリック松が峰教会という、日本に現存するものとしては最大級のロマネスク・リヴァイヴァル建築の教会です。
建築したのはスイス人のマックス・ヒンデルさん。
宇都宮市の大谷採石場から産出される大谷石で造られています。
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カトリック松が峰教会が建築されたのは、1932年(昭和7年)11月23日。
そのころはドイツではナチス党が国会選挙で圧勝し、日本では5・15事件で海軍青年将校が首相官邸に乱入し犬養首相を殺害する等、第二次世界大戦に突入しようとする時期でした。
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建築から9年後の1941年12月8日、日本軍の真珠湾攻撃により太平洋戦争が勃発。
その3年半後の1945年7月12日、アメリカ軍は宇都宮市街地を空襲し、宇都宮市街地の中心に建つ松が峰教会も罹災、屋根は焼け落ちてしまいました。
大谷石で造られた外壁は無事でしたが、壁には焼夷弾により焼け焦げた痕跡が今も残っています。
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ところどころ大谷石が黒ずんでいるのがわかるでしょうか。
頑健に造られていたカトリック松が峰教会は、屋根こそ焼け落ちたものの、外壁は無事で、戦後復元することができました。
しかし木造家屋ばかりであった市街地は、焼夷弾により焼き尽くされる結果となります。 
その罹災人口は約五万人、焼失した家屋は約一万戸であったといわれています。
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宇都宮大空襲があった1945年7月12日は、終戦の日のおよそ1カ月前。
既に日本軍には街を守る戦力はなく、男はみな戦地に出ていて、街に残っているのはほぼ女子供や老人、赤ちゃんだけでした。
果たして空襲の必要性はあったのでしょうか。
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よく日本本土空襲は、日本海軍による真珠湾攻撃の報復と言われています。
しかし真珠湾攻撃において、日本海軍機は一般市民を狙うことはありませんでした。
真珠湾攻撃は何隻もの戦艦を轟沈させる激しい攻撃だったにもかかわらず、民間人の死者は数十人です。
しかし宇都宮大空襲を始めとする日本本土空襲はそうではなかった。
もちろん数の問題ではありませんが、性質が違いすぎる気がします。
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70年前、同じキリスト教徒から爆弾を落とされる羽目になったカトリック松が峰教会。
残念ながら同じ神を信仰していても、空襲の対象にはなってしまうようです。
当時の教会の神父さんは、黒こげた教会から焼夷弾で焼き尽くされた街を見たとき、何を思ったのでしょうか。
(訪問月2015年8月)