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今回の訪問先は、関ヶ原の合戦で敗れた石田三成の子孫が建てたという伝説がある石田神社です。
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埼玉県川口市の旧鳩ヶ谷市域。
観光資源といえば、江戸時代に徳川家康がちょっと通ったことくらいのこの小さな町に、安土・桃山時代末期にその徳川家康と勢力を二分して天下を争った雄、石田三成の子孫が落ち延び、移り住んだという民話があります。
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現在地は埼玉高速鉄道線鳩ヶ谷駅に近い、国道122号線上です。
飲食店やマンションが立ち並ぶ、どこにでもある幹線道路沿いの街並みにその神社はぽつんと建っています。
目標物は最近鳩ヶ谷にもできたニトリ鳩ヶ谷店で、石田神社はニトリから122号を挟んだ反対側に建っています。
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神社へは122号から路地に入り、マンションと倉庫の間にある側溝の上を通り抜けていきます。
122号上からでも神社は確認できますが、駐車場があって阻まれているので、この道を通っていきます。
建物の隙間を抜けていくような参道に、この神社が、無関係の一般人が参拝に来ることを予定している神社ではないことがわかります。
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参道を抜けるとすぐ目の前が石田神社です。
社殿の前に賽銭箱はありません。
民話では、関ヶ原の合戦に敗れた三成の孫が家康の追手から逃れ、乳母に守られて鳩ヶ谷市辻(現在は川口市辻)に辿り着いたということになっています。
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鳥居の上には、影でわかりにくくなっていますが、石田神社と書かれた札が掲げられています。
鳩ヶ谷にたどり着いた孫の乳母は、宮地という豪農に赤鞘の太刀と共に三成の孫を預け、育ててくれるように頼みました。
そして自身は、自分が一緒にいると子供の出自がばれ幕府の追手がかかってしまうと考え、鳩ヶ谷宿のはずれ、新井宿村にさしかかったところにあった池に身を投じて死んでしまったという。
なにも死ななくてもいいと思いますが、当時はそういう時代だったんでしょう。
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乳母の死後三成の孫は、宮地のもとで百姓として働き、成人してからは宮地から土地をもらって独立したという。
そして、その後も子孫は鳩ヶ谷の辻に住み続け、一族繁栄するとともに、先祖の霊(石田三成)を石田祠に祀ったという民話です。
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その石田祠が、この石田神社であるとされています。
つまりこの神社が、石田三成の子孫が作ったという神社なのです。
そして、今もその一族は、この地に根を下ろし、石田三成を祀った石田神社に参拝にきているのだという。
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確かに鳩ヶ谷には石田姓を名乗る人が多いです。
ここから見回してみるだけでも、石田~がついた看板ばかり。
そういえば廃墟マニアの間で「鳩ヶ谷の洋館」として有名だった煙草専売公社の廃墟も、「石田本店」という名前でした。
あくまでも民話というレベルの話ですが、火のないところに煙は立たないというし、ひょっとしたら本当にそういうことがあったのかもしれません。
もっとも、鳩ヶ谷宿は日光御成街道であり、前述の通り家康もよく通っていたというから、隠れる場所として適切とは言い難かったと思いますが…
真偽のほどはどうなんでしょうか。
(訪問月2015年12月)