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前回に引き続き、パラオ・ペリリュー島の戦争遺跡紹介記事です。
今回はペリリュー島に残る日米両軍の兵器や陣地、慰霊碑の散策・紹介です。
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ペリリューには巨大な飛行場があり、この島をめぐって1944年9月15日から同年11月25日まで日本軍とアメリカ軍の間で戦闘が行われました。
結果はアメリカ軍の勝利。
しかし米軍の損害は大きく、日本ではあまり知られてはいませんがアメリカでは太平洋戦争の激戦の一つとしてペリリューの戦いはよく知られているそうです。
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今もペリリュー島には数多くの戦争遺跡が残っていますが、今も山岳地帯には日本軍が設置した地雷原が残されており、散策を完全にフリーで行くのはやめた方がよさそうです。
写真の登山路にある赤白の杭は、地雷原の目印です。
赤より外は地雷が埋まっている可能性がある場所なので、赤より向こうに行くなという意味らしい。
なおペリリュー島は地元のツアー催行会社、インパック・ツアーを通して訪問しましたが、ガイドさんは日本人だったこともあり説明がたいへんわかりやすくてよかったです。
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ペリリュー島飛行場の西部にあるオレンジ・ビーチ。
ペリリュー攻略を担当したのは、ガダルカナル島の戦いで勇名をはせたアメリカ海兵隊第一海兵師団でした。
1944年9月15日、ペリリュー島攻略にやってきたアメリカ海兵隊第一海兵師団は、ここオレンジビーチとホワイトビーチに上陸。
海岸で待ち構えていた日本軍の猛攻を受け、ビーチが血で染まる大損害を受けることになります。
海兵隊は前日までのアメリカ艦隊の艦砲射撃や空爆により日本軍が壊滅していたと思っていましたが、実際には日本軍は地下に潜って海兵隊の上陸を待ちかまえ、十分に引き付けてから攻撃を開始、上陸してきたアメリカ海兵隊と死闘を繰り広げました。
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オレンジビーチからペリリュー島の内部、山岳地帯に入ると、その日本軍が隠れていた洞窟陣地が今も残っています。
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ペリリュー島の山々は珊瑚礁でできていてコンクリート並みに堅いものでした。
日本軍はこの地質に目を付け、自然洞窟を活用して500以上に及ぶという歩兵壕を構築、さらにそれを縦横に掘り進めて坑道で繋ぎ、アリの巣のような洞窟陣地を作ってアメリカ軍の侵攻を待ち構えていました。
米軍の艦砲射撃や空襲をもってしても破壊できない洞窟陣地にひそみ、斬り込み攻撃を連日連夜かけてくる狂人のごとき日本軍は、この島を2、3日で攻略するつもりだったアメリカ軍にとって予想外の事態だったという。
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日本軍の斬り込み攻撃は直接の勝利をもたらすことはなかったものの、アメリカ軍側の死傷者を着実に増やし、アメリカ軍の戦闘部隊の交代は頻繁に行われました。
ちなみにペリリュー島の守備にあたっていたのは、栃木宇都宮の日本陸軍第14師団隷下にあった茨城水戸の歩兵第2連隊と群馬高崎の歩兵第15連隊の第3大隊。
のちにペリリューの戦いの最中、パラオ本島から高崎歩兵第15連隊の第2大隊がペリリュー島に逆上陸し、損害を出しながらも日本軍に合流したが、日本軍の増援はあとにも先にもこれだけでした。
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大きな洞窟陣地には日本軍の大砲も残っていました。
しかしながら大砲が向いていた方向とは別の方向からアメリカ軍が攻めてきたため、この大砲は結局使われなかったそうです。
また、このように大型の大砲は、使用することで位置がばれてしまい、強力なアメリカ軍の猛反撃を受ける結果となってしまうため使いどころが難しかったという。
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ペリリュー島には日米両軍の戦車も遺っていました。
洞窟陣地のすぐ近くには、アメリカ陸軍の中戦車、M4シャーマンが遺っています。
ヨーロッパ戦線ではドイツ軍相手に苦戦を強いられたというシャーマンですが…
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対する日本軍の戦車はこちら、九五式軽戦車です。
シャーマンに比べて半分くらいの大きさで、シャーマンが溶接された厚い装甲を持っていたのに比べ、こちらは薄い装甲がリベット打ちでくっついています。
写真だとわかりにくいですが、この二つを実際に見てみると日本軍が気の毒になるくらい貧弱な戦車です。
両軍の戦車を見比べて他のツアー参加者、相方、ガイドみな口をそろえて、「これじゃ日本は負けるよ」と言っていました。
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しかし、そのような圧倒的不利の状況下でも、ペリリュー島守備隊は奮戦。
アメリカ軍の上陸作戦を担当するアメリカ海兵隊の中でもっとも歴史あり、そして最強と呼ばれていた第一海兵師団を全滅判定に追い込み、10月15日には第一海兵師団の全兵力をペリリュー島から駆逐しています。
写真はペリリュー島の米軍海兵隊第一海兵師団の慰霊碑です。
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その後もペリリュー島守備隊は援軍でやってきたアメリカ陸軍第81歩兵師団と戦闘を続け、たびたびアメリカ軍を撃退しますが、次々と新戦力を投入してくるアメリカ軍に対し、補給も増援もない日本軍は徐々に追い詰められていきます。
やがて兵力も弾薬も底がついたペリリュー島守備隊司令部は玉砕を決め、ペリリュー島守備隊長中川州男大佐ら司令部の自決と、残存兵力によるバンザイ突撃が決定します。
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中川州男大佐が指揮を執っていた司令部壕。
ここが最後司令部ではなく、さらに山深くにある急峻な地形「チャイナ・ウォール」に最後司令部があったらしいですが、そこまではツアーではいけませんでした。
11月24日、中川大佐以下司令部の自決後、残存の日本軍は大本営に対し玉砕を知らせる決別電報「サクラサクラ」を発し、翌朝11月25日にかけて55名の残存兵力によるバンザイ突撃を敢行。
ここに日本軍は壊滅し、ペリリュー島の戦いはアメリカ軍の勝利で終わりました。
戦闘終了後、アメリカ軍が最後の最期まで頑強に抵抗した日本軍の司令部壕に入ると、中川大佐らの遺体を発見したといいます。
アメリカ軍は自分たちを最後まで苦しめたその遺体を敬意をもって、丁重に葬ったという。
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中川大佐の司令部壕近くには、ペリリュー島の戦いで戦死した日本軍の軍人、軍属一万余名を祀ったペリリュー神社があります。
ペリリュー神社には、米太平洋艦隊司令長官ニミッツ提督の作と言われている碑文があります。
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諸国から訪れる旅人たちよ この島を守るために日本国人が
いかに勇敢な愛国心をもって戦いそして玉砕したかを伝えられよ
   米太平洋艦隊司令長官C.W.ニミッツ


と書かれています。
この言葉、実際にニミッツ提督が言ったものかどうかはわからないらしいのですが…
いずれにしても、圧倒的に不利であったはずの日本軍が見せた頑強な抵抗は、もはや戦勝気分であったアメリカ軍首脳部を驚愕させたことは間違いありません。
事実、ペリリュー島攻略作戦は、アメリカ軍が多大な犠牲を払って島を占領した時には、進行の遅れから既に島の戦略的価値はなくなっており無意味なものになってしまったという。
逆に日本軍は、この戦いから長期持久戦の戦訓を得、「歩兵戦術の極み」と言われた後の硫黄島・沖縄戦へと戦術を発展させていきます。
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同時に、そこには希望なき戦場の中で、楽に死ぬことを許されない兵士たちの筆舌しがたい苦痛があったことも、忘れてはならないことです。
あまりの頑強な抵抗からアメリカ軍は日本軍の忠誠心を讃え、ペリリュー島を「天皇の島」と呼んだという。
しかし、死力を尽くした戦いぶりは、忠誠心から生まれたものではなく、サイパン島が陥落し、空襲にさらされるようになった日本本土の家族を守りたい一心から生まれたものだったのではないでしょうか。
(訪問月2012‎年‎9‎月)