沖縄県糸満市伊敷にある、轟の壕を歩いてきました。

沖縄旅行初日の最後は轟の壕に行きました。
沖縄県平和祈念公園から国道331号線をひめゆりの塔方向へ戻ります。
ひめゆりの塔を過ぎて名城バイパスに入り、地名が伊敷から真栄里に変わる直前にある大きな交差点のすぐそばに、伊敷轟洞穴遺跡と呼ばれる巨大な洞穴があります。
ここは轟の壕とも呼ばれ、沖縄戦末期、敗残の日本軍と避難民が立てこもり、アメリカ軍の攻撃や日本軍による避難民の虐殺で多大な犠牲者がでたと言われている壕です。
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広々とした名城バイパス沿いにあるというのに、鬱蒼と生い茂る木々に囲まれ、薄暗い轟の壕への道。
轟の壕まで階段を下っていくのですが、どこかから水が流れでているのか地面がじめじめしていました。
転落防止のためにしかれた鎖もうす汚れていて、あまり雰囲気は良くない。

轟の壕には沖縄戦前半、沖縄県庁と県民が避難していましたが、戦争末期になると首里の失陥によって南部に撤退してきた日本陸軍第32軍が入ってきました。
第32軍の兵士達は、県庁職員と避難民がいた乾いた場所を占拠して追い出し、職員と避難民は洞窟入口の湿地帯に追いやられることとなります。
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階段の途中にある洞穴。ここも轟の壕の入り口のひとつだろう。
このあたりまで来ると階段の土は明らかに水を含んでいて滑りやすくなっており、転ばないように慎重に歩かなくてはなりませんでした。
ところどころから地下水が涌き出ているようです。
洞穴内に入ってみようかと思いましたが、ここにきて懐中電灯を車に置き忘れてきたことがわかりました。
仕方がないので、黒々とした洞口に向かってデジカメのシャッターを切ります。
奥のほうの壁に黄色い矢印が書いてあるのが見えました。
洞窟は奥まで続いているようです。
しかし私たちは、結局この轟の壕には入りませんでした。
なんだか空気が重苦しく、頭の中で「入ってはいけない」と警報が鳴っている気がしたからです。
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階段途中の壕に入るのやめ、さらに階段を降りていきます。が、相方がさっきの壕の所から動こうとしない。
疲れたようだったので、そこに置いて自分だけ下に行きます。
あとでこのときのことを相方に尋ねたら、
「あの時は(戦争犠牲者に)失礼だと思ったから口には出さなかったが、あの壕は怖かった。行きたくなかった」
と言いました。相方には轟の壕でかつて何があったのかを詳しく教えてはいませんでしたが、直感で何かを感じていたようです。
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階段の一番下には、人一人やっと入れるくらいの、小さな穴が開いていました。
なんだか奈落の底に続いているような穴です。
これも轟の壕の入り口でしょうが、相方を残していくわけにもいかないので、こちらも入ってみるのはやめました。

第32軍は避難民から食糧を略奪したり、飢えで泣き出す赤ちゃんを殺害したりと、その銃口をアメリカ軍だけでなく避難民にも向けました。
沖縄県平和祈念資料館で、そのジオラマを見ることができます。
轟の壕にいた当時の沖縄県知事は、摩文仁の牛島中将に日本軍の暴虐を訴えようと壕を出ていきますが、途中で帰らぬ人となってしまいました。
轟の壕は末期には1000人近い人間が隠れていたそうですが、アメリカ軍が近づいてきても日本軍は避難民に対し壕の脱出を許さず、餓死者が続出して地獄絵図となっていたそうです。
最後には避難民は、敵軍であるアメリカ軍に救出されることとなりました。
アメリカ兵に「中(壕)の日本兵、生かしますか殺しますか」と聞かれた時、県民は「殺せっ、殺せっ!」と言ったといいます。
現地の言葉で懲らしめろを意味する「くるせー」と言ったのだという説もありますが、どっちにしても切ないですね。
当時の避難民は、どんな思いで壕の外を見ていたのでしょうか。

この轟の壕を題材にした、「GAMA 月桃の花」という映画があるそうです。
一般には貸し出されていないようですが、機会があればみてみたいと思います。

轟の壕は、他の壕とはまた少し違う空気を持った壕だと思います。
平和祈念公園の鉄血勤皇隊の壕や南冥の塔の壕は、人通りのない寂しい場所にありましたが、日の当たる明るい場所でもありました。
しかし轟の壕は、名城バイパスという広い通り沿いにあるのに、どうしてこんなにも暗く、じめじめした雰囲気を持っているのでしょうか。
(訪問日2013‎年‎7‎月‎11‎日)

→蟻地獄の巣の底「轟の壕」を歩く