沖縄県南城市糸数にある、沖縄陸軍病院糸数分院アブチラガマを歩いてきました。
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沖縄旅行2日目のこの日は当初海でのアクティビティを予定していたのですが、台風による海荒れの影響であえなく中止になってしまいました。
地下壕なら台風も関係あるまい! と思い立ち、急遽、南城市糸数にあるアブチラガマ(糸数壕)に行ってみることにしました。
ガマとは現地の言葉で、自然洞穴を意味します。
アブチラガマは、南風原にあった沖縄陸軍病院の分院として、沖縄戦の最中負傷兵の治療などを行った地下壕です。
有名なひめゆり学徒隊が勤務していました。
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アブチラガマは轟の壕と違い勝手には入れないので、管理者である南部観光総合案内センターにて入壕の受付をします。
この時、受付の人からガイドを頼むかどうか聞かれます。
ガイド料は1000円と、解説してもらえる話に比べれば破格の安さなので、頼んだほうがいいと思います。
ベテランらしきガイドさんの説明はとても真に迫っていて、わかりやすかったです。
一寸先も見えない暗黒の世界で、貴重な話を聞け、他では経験できない体験をさせてもらえます。
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アブチラガマの概要と略図。
兵器庫があった辺りの洞口から入壕し、住民区域(右側)の洞口から出るルートになっています。
説明文を書き出すと、
<このガマは、全長が約270メートルに及ぶ自然洞穴で、昭和19年7月頃から日本軍の陣地としての整備が始まった。20年3月23日南部が艦砲射撃をうけ、翌24日から、糸数の住民約200名がこのガマに避難した。その当時は、日本軍の陣地・糧秣倉庫及び糸数住民の避難壕として使用されていた。
 地上戦が激しくなり南部への危険が迫ってきた4月下旬頃、南風原陸軍病院の分室として糸数アブチラガマが設定され、5月1日から約600名の患者が担送されてきた。このガマも危険になってきた5月下旬の撤退まで陸軍病院として使用された。病院の撤退後は、重症患者が置き去りにされ、米軍からの攻撃もたびたび受け悲惨を極めた地獄絵が展開された。しかし、このガマのおかげで生き延びた人達がいることも忘れてはならない事実である。
 このガマで亡くなられた方々の遺骨は戦後、糸数住民と関係者等によって蒐集され、「魂魄塔」に合祀された>
とあります。
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アブチラガマ入り口。鉄門の向こうが洞口になっています。
写真撮影については何も言われませんでしたが、ガイドさんが入壕に際し、手をたててお経のようなものを唱えているの見て、とてもそんな雰囲気じゃないと思いました。
私たちも黙祷した後、ガイドさんの後に続いてアブチラガマに入ります。

アブチラガマは、自然洞穴だけあって通路がかなり広い洞窟でした。
足元もでこぼこしているがわりと平坦で、歩きにくさはない。
しかし当時は裸足同然の人も多数いたということで、加えて薄暗かったわけだから、怪我をする人も多かっただろう。
壕の中はどちらかというとだだっ広い空間という感じで、その中に「軍医室」「兵器庫」「病棟」「便所」「空気孔」「カマド」「破傷風患者」「脳症患者」「死体安置所」などの看板があって、そこにいたるごとにガイドさんが解説をしてくれます。

「軍医室」・・・・・・このアブチラガマでの軍医は、民間の医者も含めて3人しかいなかったらしい。そこに看護婦一人と衛生兵、ひめゆり学徒隊等の20名くらいで、600人近い負傷兵を治療・看護していた。次から次へと負傷兵に呼ばれるので、休む暇もまったくなかったとのこと。手術は麻酔薬がほとんどない状況で、壊死した手や足の切断にのこぎりを使った。兵士の悲鳴が壕内に響き渡る状況だったという。
「病棟」・・・・・・今はもうないが、当時は壕の中に二階建ての小屋のようなものが建設されていたらしい。負傷兵たちはここに寝かされ、身動きもできない状況で呻いていた。衛生状態の悪い壕の中のこと、傷口から膿や蛆がわいて出る状況だった。
「便所」・・・・・・当然水洗便所などはない。便を入れる桶があって、それを定期的にひめゆり学徒隊が担いで外に捨てに行ったそうだ。しかし薄暗く滑りやすい壕の中で、疲労と空腹の極限状態にあったひめゆり学徒隊はそれをこぼし、頭から被ってしまったことなどがあったらしい。
「カマド」・・・・・・壕内で飯を炊こうとしていたらしいが、密閉された壕の中では煙が充満してしまうため、あまり使用されなかったようだ。さすがにこれは無理があったようだ。
「破傷風患者」・・・・・・傷口から細菌に感染し、破傷風になった患者の隔離室。薬もない状況ではほとんど治療法はなく、手や足が痙攣し動けなくなってくると隔離室に放り込まれたという。
「脳症患者」・・・・・・傷口から細菌に感染し頭をやられてしまった患者の隔離室。回復の手立てもなく隔離室に放置状態であったという。脳症患者は重傷人の上を歩き回ったりしたため、壕内でも扱いに手を焼いていたようだ。
「死体安置所」・・・・・・末期にはまだ息があるものでも、助かる見込みがなければ死体安置所に入れられてしまったという。「助けてくれ、俺はまだ死んでいない・・・」

ガイドさんの話は聞くだけで怖気の走るようなものだった。
あまりにすさまじくて、かえって現実感がない。どこか別の世界のような話でした。

アブチラガマは第32軍が首里を放棄し摩文仁に撤退すると、その役目を終えて同じく南部に撤退します。
その際、自分ひとりで歩けない負傷兵は照明も外された洞窟内に置いていかれることになりました。
しかし、アブチラガマ内部で湧き出ていた地下水と、糸数住民からの食料の差し入れによって、その命を繋いだ兵士もたくさんいたそうです。

最後、出口の階段の前で懐中電灯の明かりを消すように言われます。
明かりを消すと、何も見えなくなって、わずかに地下水の水滴が垂れる音だけが聞こえます。
これが、取り残された負傷兵が見た闇。
そして徐々に目が闇に慣れてくると、はるか向こうの出口から漏れるわずかな光に照らされた階段が見えてきます。
これが動けない負傷兵が見た、光の階段。
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光の階段を登ると、糧秣倉庫側の出口に出れます。
ここからわずかに入る光が、真っ暗闇の壕の中でかすかに階段を浮かび上がらせていたようです。
動けなかった兵士たちが絶望の中で夢見た外の世界が、ここにあります。
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ガマを出た後に見れる糧秣倉庫。
近くには「大東亜戦争沖縄戦線戦没者之墓」と刻まれた慰霊碑があります。
私と相方で慰霊碑に水をかけ、犠牲者の冥福を祈りました。
ガイドさんによると、大東亜戦争という名前を嫌う人もいるらしいですが、アブチラガマでは大東亜戦争という名称で固定しているそうです。

私たちがアブチラガマを立ち去る直前、学生の乗ったバスが三台くらい南部観光総合案内センターの駐車場に入ってきました。
アブチラガマは修学旅行の定番ルートになっているようで、バッティングしなくてよかったと思いました。
私たちも朝一の9時に来ましたが、学生も早いですね。 

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アブチラガマから、南東の方角に移動すること約2キロメートル。
八重瀬町に広がる畑の中に、アブチラガマ同様沖縄戦当時野戦病院として機能していたヌヌマチガマがあります。
ヌヌマチガマは八重瀬岳中腹にあった第24師団第一野戦病院の新城分院として活動し、1000人ともいわれる負傷兵の治療に当たっていた壕です。
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農道を走っていると、突如現れる白梅学徒看護隊の壕の慰霊碑と説明版。
アブチラガマや伊原第三外科壕と違って目立たないので、見逃さないよう注意が必要です。
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ヌヌマチガマの説明版。グーグルのストリートビューで場所を確認したとき、この説明板はなかった。
説明板の作成年を見ると、 2012年6月23日とあり、新しいものであるとわかる。
6月23日は、第32軍軍司令官牛島中将が自決した日で、沖縄戦が終了した日です。
このヌヌマチガマには、アブチラガマと同じように女子学生による看護学徒隊「白梅学徒隊」が勤務していました。
その任務は炊き出しや負傷兵の看護、手術の際のろうそく持ち、排泄物の処理や切断した手足の処理などで、昼夜を徹して過酷な任務についていました。 
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略図の拡大版。
ヌヌマチガマは西側部分で、東側部分がガラビガマ。
最初はヌヌマチガマだけで負傷兵の看護を行っていたそうですが、負傷兵が増えるにつれガラビガマ側にも病院が広がっていったそうです。
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首里陥落と第32軍の南部撤退により、このヌヌマチガマの野戦病院も閉鎖されることになります。
その際、自力で撤退することのできない負傷兵には、青酸カリが飲まされ、友軍の手によって殺害されることとなりました。
沖縄戦末期、友軍による重症患者の殺害は頻繁に行われていたようです。
国のために命をかけて戦い、負傷して壕で地獄の苦しみを味わい、最期は友軍の手によって殺害された当時の日本兵たちは、どれほど無念であったことでしょうか。
(訪問日2013‎年‎7‎月‎12日)