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おかげさまで「帝都を歩く」も三周年を迎えました。
なんとも地味なブログですが、来訪いただき誠にありがとうございます。
時間を見つけて更新していきたいと思っておりますので、今後とも「帝都を歩く」をよろしくお願いします。
さて、今回は埼玉県川口市朝日にある寺院、薬林寺を歩いてきました。
Ikazuchi
旧大日本帝国海軍の駆逐艦 雷(いかづち)。
この艦は昭和7年8月15日に竣工した、日本海軍の吹雪型駆逐艦の23番艦です。
雷は太平洋戦争においてソロモン海海戦やアッツ島沖海戦に参戦するなど、広大な太平洋を縦横に戦った歴戦の駆逐艦ですが、中でもスラバヤ沖海戦における敵兵救助のエピソードがよく知られています。
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昭和17(1942)年2月27日、日本軍の蘭印作戦(オランダ領インドネシア攻略作戦)において、スラバヤ沖で駆逐艦 雷を含む日本艦隊とアメリカ、イギリス、オランダ、オーストラリアの連合艦隊「ABDA艦隊」とによるスラバヤ沖海戦が勃発。
両艦隊は砲火を交え、日本艦隊はこの海戦で敵の巡洋艦など全15隻のうち11隻を撃沈し、この海域における制海権を確保しました。
この海戦の結果、スラバヤ沖の海上には艦を撃破された連合軍将兵が多数漂流することとなります。
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この時駆逐艦 雷は、この海域で沈没した英国駆逐艦「エンカウンター」等から脱出した多数の漂流乗組員を発見します。
漂流する連合軍将兵は多数で(雷乗組員の2倍近い422名)救助した捕虜が艦で反乱を起こす危険があったこと、また、救助によって艦の足が止まり、敵潜水艦から攻撃される危険があったこと、そして何より敵軍であることへの憎悪から雷の乗組員は救助をためらいます。
しかしこれに対し、雷の艦長であった日本海軍工藤俊作中佐は、漂流する敵兵救助を決断しました。
この英断によって、連合軍将兵422名は日本海軍にその命を救われることとなったのです。

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現在地は日光御成道で知られる国道122号線、川口市の国指定登録有形文化財「旧田中家住宅」に近い末広交差点です。
末広交差点はハーレーダビッドソンセントラル川口店や十勝甘納豆本舗末広店などが角に建っている大きな交差点です。
帝都東京と埼玉を繋ぐ国道だけあって、車の交通量はすこぶる多い。しかし歩行者は稀です。
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末広交差点から、江戸時代に徳川家が日光社参のために使用した日光御成道(国道122号線)を北上していきます。
もともと川口はこの日光御成道を中心として栄えた町だったのですが、今ではここより西の川口市栄町に作られたJR京浜東北線川口駅付近が繁栄の中心地になっており、国道122号付近は川口でも辺境扱いになっています。
運賃が高いことで定評のある埼玉高速鉄道の開通により陸の孤島からは脱出しましたが、けっこう国道122号沿いには廃屋のような外観の建物が建ち並んでいます。
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その国道122号から川口駅方向への脇道を入った先に、今回の目的地である薬林寺があります。
鳩ヶ谷市との合併前は川口市と鳩ヶ谷市の市境であった川口市朝日に建つ真言宗智山派寺院、薬林寺。
特にとりたてて参拝者が多いわけでもなく、有名なわけでもないこの薬林寺に、2008年12月7日、一人の英国老紳士がイギリスからやってきました。
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写真は薬林寺の薬師堂(左)と山門(右)です。
薬林寺にやってきた老紳士の名はサムエル・フォール。当時89歳。
フォール卿はイギリスで外交官等を勤めた人で、その功績から「サー」の称号を与えられた英国紳士でした。
高齢に加えて心臓病も患っていたというこの英国紳士は、なぜ長時間のフライトという危険を冒してまでこの薬林寺にやってきたのでしょうか。
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山門をくぐった先には薬林寺本堂があります。
フォール卿は元英国海軍士官であり、太平洋戦争においては、イギリス海軍駆逐艦「エンカウンター」の砲撃士官でした。
フォール卿の乗るエンカウンターは、前述のスラバヤ沖海戦で日本艦隊と交戦。
昭和17(1942)年3月1日、日本艦隊の攻撃によって乗艦「エンカウンター」を撃沈させられたフォール卿は、スラバヤ海域を他の生存者とともに漂流してしまいます。
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味方の艦はすべて撃沈されるか退却していたため、救助の望めない漂流であり、フォール卿をはじめとする連合軍将兵422名の命が尽きようとしていたころ、彼らはやってきた敵軍である日本海軍の駆逐艦 雷に救助されたという。
フォール卿が病を押してまで来日したのは、当時自分たちを救ってくれた雷の救助活動に対し、自分の命が尽きる前にどうしても感謝を伝えたかったからでした。
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薬林寺本堂の裏手には、薬林寺墓地が広がっています。
実はこの墓地には、自分の艦を危険に晒すという難しい状況の中で、敵兵救助の英断を下した駆逐艦 雷の艦長、工藤俊作の墓があるのです。
工藤艦長は戦後、川口市で親戚の勤める病院で手伝いをするなどして余生を過ごし、没後ここ薬林寺に葬られたという。
工藤艦長はスラバヤ沖海戦での救助劇を身内にも話しておらず、フォール卿が来日して初めて、この救助劇が日本に知らされることとなりました。
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墓地の一画に、工藤艦長のお墓があります。
墓石には「先祖代々之墓」とあるだけで、非常にわかりにくいです。
時折参拝者がいるのか、場所を薬林寺の方に聞くと「ああ、工藤俊作さんの墓ね」と言って快く案内してもらえました。
来日したフォール卿はこの墓前に献花し、手を合わせ、「Thank you」と言ったという。
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墓石の横手には小さく「工藤俊作」とその配偶者の名が刻まれています。
『サイレントネイビー』
帝国海軍軍人は多くを語らず、ただ実行するのみという、当時の海軍軍人の信念です。
その通りに工藤艦長は戦後、軍人といえば敵扱いとなってしまった時代の中で、戦中のスラバヤ沖での敵兵救助を誇ることなく、ただ黙ってその人生を終えています。
工藤艦長の墓石が「先祖代々之墓」となっていて名前がないことにも、どこか『サイレントネイビー』らしいな、と思いました。
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またサムエル・フォール卿は工藤艦長による救助活動を経験して、日本の武士道とは、勝利に驕ることなく敗者を労り、その健闘を称えることである、と語っています。
その言葉通りの武士道を見せ、それを誰にも語ることなく逝った日本海軍の艦長と、その恩を生涯忘れず、死の危険を冒してまで恩に報いた英国海軍将校。
敗戦国日本においては、暗黒の時代だったように言われる第二次世界大戦期ですが、実際にはそれぞれの誇り高き信念のもとで、人々が生きていた時代だったのかもしれない。
(訪問月2017年2月)