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墨田区墨田五丁目にある寺院、隅田山多聞寺を歩いてきました。
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隅田山多聞寺は、東武スカイツリーラインの鐘ヶ淵駅から徒歩10分の所にある真言宗智山派寺院です。
多聞寺は隅田川七福神巡りの最初の寺として有名ですが、本堂では時折「いのちと平和コンサート」という平和行事が行われているそうです。
正面の立派な茅葺き屋根の山門の先が、多聞寺の境内です。
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多聞寺の山門は江戸時代の中期に造られた墨田区内最古の歴史的建造物です。
墨田区の前身である本所区と向島区は、昭和20(1945)年3月10日の東京(下町)大空襲においてそのほとんどが焼夷弾により焼き払われてしまいましたが、向島区の北端の隅田町(当時)にあった多聞寺は幸いにして被災しなかったようです。
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どっしりとした山門をくぐって境内に入ります。
多聞寺は隅田川七福神の毘沙門天を本尊としており、元旦から1月7日までに行われる「隅田川七福神巡り」の際には多くの参拝客が訪れるという。
しかしこの日は日中36℃の猛暑だったためか、境内に参拝客はありませんでした。
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本尊の毘沙門天の他、境内には史跡「狸塚」や「映画人の墓碑」「石造六地蔵菩薩坐像」など、いくつかの見学ポイントがあります。
が、このブログ的な見学ポイントとして、今回は境内に展示されている太平洋戦争の戦争遺跡に注目したいと思います。
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多聞寺の山門のちょうど裏手に、ベンチがあって休憩できる場所があります。
そのベンチの横手に、二つの東京空襲の被災物が説明板付きで展示されているのです。
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その一つ、平成3(1991)年8月12日に尾竹橋通り沿いの荒川区西日暮里一丁目2番7号先から出土した、空襲で焼かれた木の残骸です。
昭和17(1942)年4月のドゥーリットル空襲から終戦までの間、東京地域には百回以上の空襲がありましたが、この木は昭和20(1945)年4月13日23時から4月14日2時22分までに受けた大規模な空襲「城北大空襲」で焼かれたものだそうです。
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終戦からおよそ46年後に発見されることとなった、空襲で焼かれた木。
しかし、そんな後になってから見つかって、いついつの空襲で被災したとかわかるものなんでしょうか。
当時の証言を頼りに被災時期を探り当てたのか、それとも何らかの科学的見地によって判明したのか。
そのあたりは詳しく書かれていないのでわかりません。
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もう一つは、昭和20(1945)年3月10日の東京(下町)大空襲で被災した浅草国際劇場の鉄骨です。
長さ1メートルほどの鉄骨で、中心部でぐにゃりと曲がっています。
日中戦争が始まった年の昭和12(1937)年浅草に完成した浅草国際劇場は、その八年後の東京大空襲で罹災しました。
説明板には空襲によって屋根を支えていた鉄骨が曲がり、ちぎれ、中にいたたくさんの人々が焼死したと書かれています。
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浅草国際劇場は、戦時中追いつめられた日本軍の決戦兵器「風船爆弾(気球爆弾)」の製作工場の一つになっていました。
材質に日本伝統の和紙、接着剤にこんにゃく糊を使って作成した気球に、空気漏れがないかを確認するための場所として、天井の高い浅草国際劇場が使われていたのです。
この作業には都内の女子学生が動員されていたそうです。
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3月10日未明の東京大空襲では、B29戦略爆撃機330機による無差別絨毯爆撃を受け、下町一帯は「炎の夜」と化し、十万人以上という犠牲者がでました。
その犠牲者のほとんどは、男たちが戦場に出た後の銃後を守っていた女性や子供でした。
子供たちのような戦争とは何の関係もない、社会的弱者に東京大空襲のような惨禍が二度と降りかかることがないよう、平和な世界を守っていかなくてはいけませんね。
(訪問月2017年7月)