DSCF2832
2017年も今日で終わりですね。
本年おかげさまで我が家の子供たちは、大きな病気や怪我もなく順調に成長できました。
そろそろ子供たちも自我が目覚める時期であり、2018年は私も特段の努力をして子供たちの模範となっていきたいと思っています。
さて2017年最後の更新となる今回の訪問先は、豊島区北大塚にある旧陸軍傷病兵療養施設「廃兵院」跡地です。
DSCF2841
JR山手線大塚駅から北東へ徒歩5分ほど歩いた所に、豊島区立の巣鴨公園という公園があります。
大塚駅前の繁華街から若干離れた住宅街にある中規模公園です。
公園の前の道は細いですが車通りは多く、小さな子供を連れて来るには少し心配な所です。
DSCF2833
鬱蒼と生い茂った木々に囲まれ、やや暗い印象を受ける巣鴨公園。
巣鴨公園は東西に上下二段に分かれている地形的な特徴を持っています。
東側の上段の公園は真ん中にフェンスで囲いがされた砂場があり、その周りにシーソーや四連のブランコの遊具が設置されています。
DSCF2823
砂場の横には竹柵で囲われた生け垣があり、その中心に巨大な石碑が建っています。
石碑には「傷兵院舊址 護れ傷兵 忘るな武勲 陸軍大将男爵本庄繁書」と書かれています。
この石碑は『傷兵院舊址の碑』で、かつてこの公園が旧大日本帝国陸軍の戦傷病兵の療養施設『廃兵院』であったことを記念するものです。
キャプチャ
激しい戦闘によって多数の戦傷病者を出した日露戦争が終結した明治38(1905)年、日露戦争で陸軍参謀総長を務めた山縣有朋は「廃兵院設立に関する意見書」を政府に提出。
これを受けて政府は明治39(1906)年『廃兵院法』を公布し、戦傷病兵を国で扶養することとして、東京予備院渋谷分院の一部に廃兵院を設立しました。
そしてその廃兵院が明治41(1908)年、当時の東京府北豊島郡巣鴨町、現在のここ巣鴨公園に移転してきたのです。
DSCF2834
巣鴨公園西側の下段部分は区画整理事業により増設された所で、上の公園に比べ遊具が多く複数の家族連れが遊んでいました。
廃兵院は昭和9(1934)年、のち施行された傷兵院法により「傷兵院」に改称され、昭和11(1936)年に現在の小田原市風祭へと移転していきます。
傷兵院はその後各地に設立され、日露戦争より遥かに多くの戦傷病兵を出したアジア・太平洋戦争中も傷痍軍人療養所として運営されましたが、敗戦後はポツダム緊急勅令により廃止され、傷痍軍人療養所は国立療養所へと変わっていきます。
DSCF2839
巣鴨公園下段の雲梯で遊ぶ我が家の長女と長男。
この後長男は、盛大に転倒してしまいました。
小田原に移転した元巣鴨の廃兵院も敗戦の年の昭和20(1945)年、国立箱根療養所へと変わっています。
この国立箱根療養所の歴史資料は、日本傷痍軍人会が運営する千代田区の「しょうけい館」に展示されています。
しょうけい館では傷痍軍人たちが辿った戦中、戦後の苦難と困窮の一生を、展示パネルや遺品等で紹介しています。
DSCF2825
廃兵院の収容者は両眼が見えなくなった者、二肢以上を失った者など、社会復帰が困難な傷痍軍人であったという。
今から約80年前まで、この巣鴨公園の地に戦争で不具になった多くの廃兵が収容されていました。
その当時を偲ばせる唯一の史跡『傷兵院舊址の碑』は、薄暗い公園の中心にある生け垣の中にひっそりと佇み、今も廃兵の武勲を讃え続けています。
(訪問月2017年11月)