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二回目の訪問となりますが、千代田区北の丸公園にある東京国立近代美術館を歩いてきました。
今回も、戦争記録画の見学が目的です。
ちなみに、前回訪問したときの記事はこちらです。
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東京国立近代美術館には第二次世界大戦の敗戦後GHQによって接収された戦争記録画が、アメリカ合衆国からの無期限貸与という形で所蔵されています。
当館に所蔵されている戦争記録画は計153点に及び、期間ごとに数点がMomatコレクションとして美術館に展示されています。
この日も計六点の戦争記録画が公開されていたので紹介します。
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昭和17(1942)年、マレー半島を進む日本軍が爆破された橋を架け直している様子を描いた「工兵隊架橋作業」。清水登之作。
太平洋戦争が開戦した日の昭和16(1941)年12月8日、日本軍は英領マレー半島へ奇襲上陸。
太平洋戦争の主目的であった東南アジアの資源地帯を獲得を目指し、南方作戦が発動されます。
今回の展示ではこの攻略地、南方へ向かった画家が描いた戦争記録画が展示されていました。
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続いて昭和17(1942)年2月14日、インドネシアのスマトラ島にあるパレンバンの大油田獲得を目指して行われたパレンバン空挺作戦を描いた「神兵奮戦之図(落下傘部隊パレンバン精油所攻撃)」中山巍作。
敵前に奇襲落下するパレンバン空挺作戦は大成功をおさめ、日本軍はオランダ軍が守備するパレンバンの大油田・精油所を制圧確保しました。
こうした活躍から日本軍落下傘部隊に「空の神兵」の愛称がつけられ、国内では戦意高揚のために「空の神兵」の軍歌や映画が作られたという。
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昭和17(1942)年2月15日に英陸軍の降伏で幕を閉じたシンガポールの戦いを描いた「シンガポール最後の日(ブキ・テマ高地)」。藤田嗣治作。
当時難攻不落の要塞と謡われたシンガポールを、日本陸軍は二倍を超える兵力差を覆しわずか10日で攻略しました。
破竹の勢いであった大日本帝国の威光を表すように、左上の厚い雲の中から陽光が射しています。
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太平洋戦争中盤、昭和17(1942)年7月から昭和18(1943)10月の間に敷設された泰麺鉄道の工事を描いた「〇〇方面鉄道建設」。猪熊弦一郎作。
泰麺鉄道は大日本帝国の同盟国であったタイからビルマへの陸上輸送路として日本陸軍により建設・運行された鉄道です。
しかしこの鉄道の敷設には人海戦術による無理な突貫工事が行われたため、工事に動員された連合軍捕虜や現地人が多数犠牲となり、泰麺鉄道は「死の鉄道」とも呼ばれ、戦後大きな問題になっています。
ちなみに泰麺鉄道の開通式に使われたC56型蒸気機関車31号車は、現在靖国神社遊就館に静態保存されています。
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太平洋戦争後期の昭和19(1944)年に描かれた「衛生隊の活躍とビルマ人の好意」。鈴木良三作。
ビルマの戦場での穏やかな様子が描かれていますが、この年に行われたインパール作戦は大失敗に終わりビルマ戦線は餓死者が続出する地獄の戦場となっていました。
日に日に敗色が濃くなっていく日本軍発行のルピー軍票は価値が暴落し、ビルマ人の好意に甘えなければ日本兵は生きていけない状況だったかもしれません。
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昭和19(1944)年6~7月、当時日本領であったサイパン島陥落時の戦いを描いた戦争記録画「サイパン島大津部隊の奮戦」。橋本八百二作。
大津部隊とはサイパン島最高峰タッポーチョ山でアメリカ軍相手に勇戦し、山頂を死守していた部隊です。
この作品は、藤田嗣治の有名な戦争画「サイパン島同胞臣節を全うす」とともに昭和20(1945)年4月の戦争記録画展で発表され、東京空襲で疲弊した帝都の国民の戦意高揚に利用されたという。
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しかしサイパン島守備隊は玉砕しており、作者には現場で取材できるはずもなく、この絵は過去の歴史画などを参考にしながら想像によって描いたと考えられています。
国民の戦意高揚のために、実際の現場とは違う絵を「記録画」として描いた戦争画家たち。
しかし南方の戦場で戦争画家たちが見た戦場は、記録画に描かれたものよりも遥かに悲惨なものだったはずです。
(訪問月2018年3月)