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北区西ヶ原三丁目にある寺院、昌林寺を息子とともに歩いてきました。
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以前に訪れた名探偵・浅見光彦の住む街、西ヶ原三丁目。
今回はその西ヶ原三丁目にある曹洞宗の寺院、昌林寺にやってきました。
昌林寺は浅見光彦シリーズの作中で、浅見家代々の菩提寺として登場するお寺です。
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作中において昌林寺は聖林寺という名前で登場し、浅見光彦シリーズ『鐘』の始まりの場所になっています。
『鐘』の物語は、西ヶ原にある浅見家に夜中、聖林寺から鐘の音が聞こえてきて、翌日住職から「梵鐘から血が滴っていた」ということを相談されるところから始まります。
しかし残念ながら、聖林寺のモデルとなった昌林寺の境内に鐘や鐘楼はないようです。
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太平洋戦争で資源のなくなっていた大日本帝国では梵鐘の供出が行われ、多くの寺の鐘がつぶされ軍艦や大砲、弾丸の資源になったという。
浅見家の菩提寺、聖林寺でも鐘が供出されたそうですが、昌林寺は供出されたのかもともとなかったのかはちょっとわかりません。
鐘に代わって境内には、百寿観世音菩薩像と呼ばれる巨大な青銅の像が立っています。
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百寿観世音菩薩像の奥には、師孝門という門があります。
師孝門の手前両脇には、二つの孔子像が建っていました。
孔子像といえば、同じく西ヶ原の七社神社にも古河家寄贈の孔子像・孟子像があったりします。
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師孝門の先は昌林寺の境内墓地になっています。
息子は何故かお寺が好きなので、元気いっぱいに墓地の中へ入っていきました。
ちなみに浅見光彦も、自分がまだ子供だった頃、聖林寺の墓地周辺は空き地が多くて格好の遊び場だったと『鐘』作中で回想しています。
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息子に続いて墓地に入っていくと、息子が墓地の中で空き地になっているところを見つけて、そこで一人遊んでいました。
師孝門をくぐって左手に、写真のような四角い、墓も何もない未整備の一画があったのです。
そこは雑草が生えるがままになっており、特に今は何にも使われていないような空き地でした。
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何故かその空き地の隅っこに、小さな三つのお地蔵様が雑草に埋もれるようにして置かれていました。
お地蔵様には『宝暦』とか『安永』といった江戸時代の元号とともに、○○童女と女の子の名前が記されています。
空き地の隅っこにあたる場所であり、なんか放置されているような感じですが…
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「パパぁ~、こっちにもあるよ!」
お地蔵様をしげしげと見ていると、いつの間にか息子が墓地の反対側で私を呼んでいました。
…おや?
最初は気づかなかったのですが、師孝門をくぐって右手、昌林寺本堂の影に隠れるような場所に、先ほどの空き地と同じような空き地があったようで、いつの間にかそこで息子が遊んでいます。
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…なんだここは。
この場所はちょうど昌林寺本堂の裏手に当たり、ちょっと暗い場所になっています。
この空き地に面している昌林寺の建物はちょっと汚れているものの現代的なもので、こっちは住職や家族が住む庫裡なのかもしれません。
空き地は先ほどの空き地よりも荒廃した様子で、ここしばらくは使われていないようでした。
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空き地の右手には何故か卒塔婆が山積みになっていました。
この卒塔婆、没年月日が書かれていますが平成27年とか平成29年とか、新しいものばかりです。
ちなみに浅見光彦は『鐘』作中で、聖林寺の住職に「光彦は子供の頃、聖林寺で新仏の卒塔婆を十何本か引っこ抜いて遊んでいた」と言われ、このことが原因で『鐘』の事件解決に乗り出すことになります。
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空き地の左手には大きな古い石塔もありました。
石灯籠かと思いましたが、明かりを灯す部分がありません。
石塔の周りも雑草だらけで、特に手入れされている様子はありません。
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墓地内にして荒れ果てた様子の、大量の卒塔婆と石塔の置かれた謎の空き地。
…いったいこの空きスペースはなんなのだろう。
さらに散策してみると、奥のブロック沿いに、先ほどの空き地と同じように三つのお地蔵様が雑草に埋もれるようにして置かれているのを発見しました。
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確認すると、こちらも先ほどの三つのお地蔵様と同じように、人の名前と『宝暦』の年月日が刻まれたお地蔵様でした。
…ああ、そうか。これは墓石だったのか。
江戸時代の宝暦年間(1751~1764)に亡くなった人の墓石のようでした。
となると、250年以上昔の墓石ということになりますね。
昌林寺は明治初期、新政府による廃仏毀釈で荒廃したと伝えられていますが、そうした時代も乗り越えてきた墓石と考えると、なかなか感慨深いものがありますね。
(訪問月2018年6月)