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埼玉県さいたま市岩槻区高曽根にある軍事遺跡、越谷陸軍飛行場跡地を子供たちと一緒に歩いてきました。
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運賃は高いが駅員さんは親切という印象のある埼玉高速鉄道に乗って、埼玉高速鉄道の終着駅・浦和美園駅にやってきました。
埼玉高速鉄道は別名埼玉スタジアム線と名付けられ、終点浦和美園駅は埼玉スタジアム2002の最寄り駅となっています。
駅構内にはキャプテン翼のステンドグラスなんかがありました。
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駅構内を出て、浦和美園駅東口ロータリーバス停にある国際興業バス3番乗り場にやってきました。
このバス停からは夏休み期間に限り、越谷市にあるしらこばと水上公園へのシャトルバスが出ています。
今回はこのシャトルバスに乗ってしらこばと水上公園へと向かいますが、この路線の運営は2018年で終了してしまうそうです。
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シャトルバスに乗って、しらこばと水上公園前にやってきました。
夏休み期間中かつ猛暑ということもあり、しらこばと水上公園出入り口付近は有料駐車場への呼び込みや浮き輪等プール用品販売の人で賑わっていました。
乗り合わせたシャトルバスの乗客は、当然ながらみんなしらこばと水上公園へ入っていきます。
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しかし我々はしらこばと水上公園には入園せず、しらこばと水上公園に隣接する「コバトンの森」へと向かいました。
コバトンの森はしらこばと水上公園南側に位置する大型遊具や多目的グラウンド、芝生広場やジョギングコースなどがあるさいたま市岩槻区の公園です。
芝生の向こうに見える、大型遊具の数々を見て喜び勇み駆け出していく我が家の子供たち。
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コバトンの森の遊具は6~12歳児向けのものと、3~6歳児向けのものに分かれています。
3~6歳の幼児用遊具エリア「にぎわいの水辺」には、コバトンに乗れるスプリング遊具がありました。
ちなみに「コバトン」は、埼玉県の県の鳥である「しらこばと」をモチーフにした埼玉県のマスコットです。
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こちらは6~12歳の児童用遊具エリアです。
巨大な大型複合遊具は長いローラースライダーを始め、ロッククライムや吊り橋渡り、丸太渡りなど様々なアスレチックが楽しめるコバトンハウスです。
遊具のところどころには、たくさんのコバトンが隠れています。
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そんなコバトンの森の南側には、広大な黄金の水田が広がっています。
水源豊かな岩槻区では稲作を中心とした田園が形成されており、埼玉県のブランド米「彩のかがやき」等が作られています。
彩のかがやきは病気に強く農薬を少なめに作れる安心米として、埼玉の学校給食に多用されているという。
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この水田地帯とコバトンの森、そしてしらこばと水上公園のあるエリアにはかつての太平洋戦争後期、陸軍の飛行場「越谷陸軍飛行場」がありました。
写真は敗戦後の昭和22(1947)年、日本を占領したアメリカ軍によって撮影された越谷陸軍飛行場の空中写真です。《国土地理院のホームページより抜粋》
一面を占める田んぼの真ん中に直線の長大な滑走路と、その右側に弓のように湾曲した誘導路が見えますね。
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ここに来る際国際興業バスで通過してきた、しらこばと水上公園と国道463号線をつなぐしらこばと水上公園前の直線道路は、飛行場の滑走路跡に造られたものです。
周辺は田んぼ以外に産廃業者の施設が多いためか、ひっきりなしに大型貨物車が通って危ない道路でした。
せめて歩道くらいほしいところです。
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滑走路跡西側にある水田地帯のど真ん中を縦断する畦道を通って、越谷陸軍飛行場跡地を歩いていきます。
越谷陸軍飛行場はマリアナ諸島のサイパン島が陥落した昭和19(1944)年7月に建設が開始され、飛行場建設にあたって13軒の農家が陸軍から呼び出され、退去を命じられたという。
工事は近隣住民の勤労奉仕や動員の朝鮮人によって突貫工事で行われたようですが、悪天候が続いたことから著しく遅延し、同年9月20日に完成予定だった飛行場の竣工は終戦間近の昭和20(1945)年8月まで持ち越されました。
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水田の中には複数のサギが駐留していました。
残念ながら近づくと逃げてしまいます。
同じしらこばと水上公園行きのシャトルバスの中に、望遠レンズ付きのカメラを持ってる一人のおじさんがいましたが、ひょっとしたらサギを撮りに来たのでしょうか。
そういえばあのおじさんはどこに行ったのだろう。
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畦道を400メートルほど進むと、唐突に足元が土から石に変わり、歩きやすくなりました。
「おや、これはなんだ?」
子供たちが何かを見つけたようです。
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それは大粒の砂利が混じったコンクリートの道に空いた、たくさんの穴でした。
どうもこのコンクリートの下は暗渠になっているようで、これは当時の軍が作った排水路のようです。
砂利を混ぜた粗悪なコンクリートは、当時の大日本帝国の物資不足を示しているものと思われます。
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畦道の中央に造られた暗渠の上をさらに200メートルほど南下すると、やがて用水路にぶつかります。
水源豊かな水田地帯に作られ、さらに悪天候で工事が延期されたという越谷陸軍飛行場では、水路の構築が必須だったと思われます。
暗渠は水田地帯の周囲に巡らされた用水路まで続いているようですが、今でも使われているような感じです。
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用水路沿いの道を西に150mほど進むと、やがて北側の水田の中に巨大なコンクリート台が見えてきます。
このコンクリート台はこの付近にあったという越谷陸軍飛行場の格納庫の建物基礎部分と言われています。
しかし訪問時期が悪かったのか、黄金の稲穂に阻まれてよく見えませんね…
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右手にコンクリート台へ近づける畦道がありますが、ぬかるんでいてとても子連れでは近づけませんので、この辺りからの見学です。
終戦の年の8月に竣工した越谷陸軍飛行場が使われたのは、たった一度きりだったという。
終戦直前に着陸しようとした陸軍戦闘機(隼?)がありましたが、何が悪かったのか止まりきれずに飛行場の外堀に衝突してしまったそうです。
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敗戦後の昭和20(1945)年10月、越谷陸軍飛行場には400人ほどの連合国軍将兵が進駐しています。
この進駐軍は規律の低い部隊だったようで、近隣住民とのトラブルをよく起こし、この辺りに広く棲息していた県の鳥「しらこばと」は進駐軍の銃による乱獲で絶滅に瀕したという。
無論それだけのせいではないでしょうが、現在でもしらこばとは絶滅危惧類に指定され、稀少な鳥となっています。
(訪問月2018年8月)