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北区田端にある寺院、与楽寺を歩いてきました。
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息子とともに、JR山手線の田端駅にやってきました。
ええっ、ここが山手線の田端駅?…と思われる方もいるかもしれませんが、こちらは人通りの多い北口ではなく、裏口的な南口です。
同じ東京でもJR青梅線の青梅駅~奥多摩駅の「東京アドベンチャーライン」で見られるような駅舎と人気のなさが特徴的です。
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田端駅南口から不動坂の階段を登り、そこから南西方向へ進んでいくと「与楽寺坂」という坂に出ます。
坂の名は坂下にある与楽寺に由来しており、今回の目的地がこの与楽寺です。
かつてこの坂の近くには、画家の岩田専太郎、漆芸家の堆朱楊成、鋳金家の香取秀真、文学者の芥川龍之介などが住んでいたと言われています。
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与楽寺坂下の真言宗豊山派の寺院、与楽寺にやってきました。写真正面は与楽寺本堂です。
創建年代は不詳で、本尊は地蔵菩薩像ですが、秘仏扱いとなっていて見学はできません。
昔この寺に、夜間賊が押し入ったものの、どこかから多くの僧侶が出てきて追い払ってくれたという不思議な事件が起こったそうです。
事件の翌朝、本尊の地蔵菩薩像の足が汚れているのが発見されたことで、地蔵菩薩が僧侶に変身して賊を追い返してくれたのだと信じられ、以来本尊の地蔵菩薩像は賊除け地蔵と呼ばれるようになったという。
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今回ここ与楽寺にやってきたのは、北区の郷土資料を図書館で読んだことがきっかけです。
その北区郷土資料には、上写真の記事があったのです。
日中戦争中の金属類回収令については以前、浮間観音寺の回で説明をしましたが、ここ田端与楽寺にも金属供出から免れた梵鐘が残っているという。
記事によると、梵鐘には白いペンキで「免除」「買鑛課」と書かれているそうで、これを見に与楽寺にやってきました。
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というわけで、金属供出免除の梵鐘を探して与楽寺境内を探してみます。
境内には関東大震災の遭難死者供養記念塔などがありました。
大正12(1923)年の関東大震災では、田端、駒込など東京北部は地震直後に発生した火災の延焼から免れたそうですが、都心や下町方向から避難者が押し寄せる事態となり、近隣の古河邸では邸内を開放して避難者の収容や負傷者の治療を行っていたという。
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記念塔の先には、与楽寺の鐘楼がありました。
鐘楼には梵鐘が吊られていますが、いくら見ても白いペンキで「免除」「買鑛課」の文字は見えません。
観音寺と同じように、戦時金属供出のころの梵鐘はもう使われていないようですね。
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しかし境内のどこを探しても梵鐘は見つからず、とうとう墓地の方までやってきました。
右手の建物は与楽寺阿弥陀堂です。
阿弥陀堂と与楽寺本堂は繋がっており、阿弥陀堂の左手には二つの建物を繋ぐ渡り廊下のような建物がありました。
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「なんかあるよ!」
その阿弥陀堂と渡り廊下が交差する場所の隅に、ブルーシートでくるまれた鐘状の物体を発見しました。
ちょっと手前に立つ息子をスケールとすると、かなり大きなものであるとわかります。
ひょっとしてこれは…
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ちょっと失礼して、ブルーシートを少しめくらせてもらいました。
やはり梵鐘のようですが、紐でシートが固定されているためこれ以上は見えません。
「免除」の文字が見えればいいのですが。
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ここでもう一度、北区の郷土資料を見てみます。
梵鐘の周りにある壁に注目してみます。
白黒とはいえ、壁の形が現在とほぼ一致しており、鐘にブルーシートこそありませんがここで撮影したものに間違いなさそうです。
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金属供出免除=歴史的価値または美術的価値のある梵鐘だと思う(資料にもそう書いてある)のですが、ブルーシートにくるまれているとはいえ、そんな価値ある梵鐘がこんな境内の片隅に無造作に置かれているのはなんとも不思議ですね。
この後与楽寺の庫裡に赴き、出てきた若いお坊さんにこの梵鐘について聞いてみましたが「戦争中の金属供出免除の梵鐘については知らない」との回答を得ました。
そこで撮ったこの写真を見せると、思い出したように「自分が来た頃からあの鐘はずっとブルーシートに巻かれてあそこに置いてある。あれってそんな鐘だったんですか」と驚いていました。
お寺のお坊さんもびっくりの、知られざる戦時金属供出免除の梵鐘は、与楽寺阿弥陀堂の陰に今も眠り続けています。
(訪問月2019年2月)