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埼玉県川越市久下戸にある軍事遺跡、浅野カーリット埼玉工場跡を歩いてきました。
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現在地は川越市の東端を流れる川、びん沼川に架かる萱沼橋上です。
びん沼川は荒川の旧河道のひとつで、蛇行が激しい河川です。
河川敷で遊ぶ子供が多いのか、萱沼橋の上には河童注意的なおどろおどろしい看板が立っています。
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萱沼橋は川越市とさいたま市の境界にもなっていて、川越市側は水田が広がっています。
右側には私立川越東高等学校の第三グラウンドがあり、野球部員が熱心に練習していました。
しかしグラウンド入り口の斜め向かい側には、けばけばしいラブホテルが建っていたりします。
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第三グラウンドから水田の中を通る農道を北西方向へ歩いていくと、今度は川越東高等学校の第二グラウンドが見えてきます。
川越東高等学校は約85000平方キロメートルという広大な校地を持っていて、グラウンドも3つあります。
多数の部活動がインターハイや関東大会に出場している川越東らしく、訪問日のグラウンドでは様々なスポーツの練習が行われていました。
キャプチャ
さて、上写真は国土地理院のホームページから持ってきた、昭和22(1947)年に米軍が撮影した久下戸周辺の空中写真です。
川越東高等学校第二グラウンドがあるあたりには、戦時中、浅野カーリット埼玉工場という軍需工場がありました。
蛇行するびん沼川に囲まれた水田地帯の中に、複数の建物が密集した工場地帯があるのがわかるでしょうか。
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浅野カーリット埼玉工場は昭和14(1939)年ころに操業を開始し、約十万坪の土地には弾薬を製造する工場や火薬庫が並んでいたという。
工場の北限にあたるびん沼川の河川敷には、この軍需工場で作られ、終戦によって廃棄された戦争遺跡が大量に散らばっています。
第二グラウンド裏の土手の上からびん沼川河川敷を見下ろすと、本来焦げ茶色の河川敷が白く化粧されているのがわかります。
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土手から河川敷に降りてよく見てみると、その白いものは大量の陶磁器の破片であるとわかります。
遠くから見ると白く見えましたが、陶磁器は様々な色がついていました。
この陶磁器は、太平洋戦争末期に浅野カーリット埼玉工場で製造された「四式陶製手榴弾」の破片です。
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「信楽焼」の「信」の刻印が見える陶磁器の陶片。
長引く戦争と、連合軍による爆撃や通商破壊で深刻な金属不足に陥っていた日本海軍は、それまで鉄で作っていた手榴弾の材質に陶磁器を使った陶製手榴弾を開発しました。
陶製手榴弾の弾体となる陶磁器は有田や信楽といった陶磁器の窯元で量産され、内部に充填する火薬や信管などの起爆装置の部分は軍需工場で生産されたという。
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この打ち捨てられた大量の陶磁器は、各地で量産され、爆薬を詰めるため浅野カーリット埼玉工場に運び込まれた陶磁器なのです。
四式陶製手榴弾はこの陶磁器の中に、八八式爆薬(カーリット)を詰め敵に投げて使用される代物でした。
敗戦に伴い、不要になった陶磁器は手榴弾型の陶磁器はここびん沼川の河川敷に投棄され、戦後約75年が経った今もそのままになっています。
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河川敷には廃棄された陶磁器を熱心に漁っている二人の先客がいました。
廃棄された陶磁器は、昔は割れていないものも多かったそうですが、近年研究者などが持ち帰り、完全なものは少なくなっているそうです。
それでも何重にも積み重なっている陶片の下の方には割れていないものもあるそうで、それを探しているんでしょうか……と思ってみていたら、陶片の下の方はかなり泥沼になっていたようで、一人が転んでそこにはまっていました。
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追い詰められた大日本帝国の金属不足を補うため、苦肉の策として日本海軍に生み出された四式陶製手榴弾。
実際に四式陶製手榴弾は沖縄戦などで使用されたとのことで、沖縄県豊見城市の海軍地下司令部壕にも展示されています。
しかし陶磁器の外殻では火薬の爆発に耐えられずすぐに破裂してしまい、炸裂時の破片の速度が上がらなかったため空しいほどに威力が小さかったと言われており、こんなもので圧倒的な米軍と戦わなければならなかった沖縄の日本軍将兵はどれほど悔しかったでしょうか。
(訪問月2019年3月)