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文京区小石川の寺院、こんにゃくえんまこと源覚寺を歩いてきました。
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東京メトロ南北線の後楽園駅から北へ徒歩2、3分の位置にある常光山源覚寺。
源覚寺は寛永元(1624)年、名僧といわれる定誉随波上人によりこの地に開創された寺院です。
源覚寺はこのお寺の別称にもなっている「こんにゃくえんま」で知られています。
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境内にある閻魔堂にはこんにゃくえんまと称される木造の閻魔王坐像が祀られています。
源覚寺は江戸時代、明暦の大火など四度の大火に見舞われていますが、幸いにも木造閻魔王像は難を逃れました。
閻魔王像は太平洋戦争中も、焼夷弾による激しい空襲に曝されましたがこれにも被害を免れ、現在では文京区内でも古いものに属する仏像として、文京区指定の有形文化財になっています。
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閻魔堂の前には大量のこんにゃくが積み上げられています。
閻魔王像は昔から眼病に効能があると言われており、江戸時代に眼病を患った老婆が閻魔王像に21日間祈願したところ、老婆の夢枕に閻魔王が現れ「満願成就の暁には私の片方の目をあなたにあげて、治してあげよう」と告げたという。
その後老婆の眼がみるみる治ったことから、以来老婆は感謝のしるしとして自分の好物だったこんにゃくを閻魔像に供え続けたという伝説があります。
この伝説から、現在でも眼病治療等のご利益を求めて閻魔王像にこんにゃくを供える人が多いそうです。
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そんま閻魔王像のある閻魔堂から向かって右手に、一基の石碑が草に埋もれるようにして建っていました。
碑の中央には「雲ガハシル 学徒ガ征ク 空ニ 同期ノ華 参千六百人」と碑文がついています。
この石碑は太平洋戦争後期の昭和18(1943)年12月に学徒動員で召集された第十四期飛行予備学生の記念碑です。
学生から動員で急遽軍人になった第十四期飛行予備学生は、その多くが神風と呼ばれた特別攻撃によって命を落としていますが、戦争に何の責任もない若者の命を代償にする攻撃では本当の神風を吹かせることは出来ませんでした。
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第十四期飛行予備学生記念碑の先には鐘楼があります。
この鐘楼に吊られた鐘も太平洋戦争に関するもので、「汎太平洋の鐘」というサイパン島の南洋寺にあった鐘です。
「汎太平洋の鐘」は元禄3(1690)年に完成したもので、もともとは源覚寺が所有していましたが、昭和12(1937)年当時大日本帝国領だったサイパン島の南洋寺に寄進され、この鐘の音は人々に時間を告げるため遥か南洋のサイパンに響き渡っていたという。
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しかし大日本帝国統治下のサイパン島は昭和19(1944)年6月に米軍が上陸し、これを迎え撃つ帝国海軍がマリアナ沖海戦で壊滅的敗北を喫すると、翌7月に孤立無援となったサイパン島守備軍が万歳突撃を敢行して玉砕、島北部に避難していたサイパン島の民間人は断崖から身を躍らせ集団自決する結果となりました。
汎太平洋の鐘はサイパン島陥落以後消息不明となっていましたが、敗戦から20年後の昭和40(1965)年に米国テキサス州オデッサ市において発見されています。
発見後は昭和49(1974)年にカリフォルニア州オークランド市のD.V.クレヤー氏によってサンフランシスコさくら祭りに展示された後源覚寺に寄贈され、現在では除夜の鐘として大晦日に使われています。
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鐘楼の向かい側には、サイパン島を含むマリアナ諸島やパラオなど、南洋群島において開拓や戦争などによって命を落とした在留邦人や将兵の冥福を祈念して建立された南洋群島物故者慰霊像という菩薩像がありました。
サイパンの戦いでは約4万3千名いた日本軍の陸海軍将兵のほとんどが戦死し、8千から1万2千人にのぼる民間人がサイパン島のスーサイドクリフやバンザイクリフから身を投げ、サイパンの海は飛び込んだ犠牲者の血で真っ赤に染まっていたという。
南洋群島物故者慰霊像は、その足元にサイパンの海から持ち帰られたと思われるたくさんの貝殻が供えられており、白い貝殻の山は、サイパンで玉砕・集団自決した日本人の遺骨のように見えました。
(訪問月2019年7月)