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足立区千住宮元町にある神社、千住神社を歩いてきました。
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現在地は、東京メトロ千代田線などが乗り入れる北千住駅から西に徒歩12、3分くらいの位置にある千住神社の境内です。
千住神社は、平安時代と鎌倉時代にそれぞれ創建された稲荷神社と氷川神社が明治6(1873)年に合祀された神社です。
合祀の際に西森神社と名を改められ、区内最高の郷社と定められた後、大正4(1915)年には千住神社と名を改められ現在に至っています。
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千住神社は昭和20(1945)年4月13日の城北大空襲で被災し、その際境内の社殿を焼失してしまった経緯があります。
よって現在の社殿は、昭和33(1958)年9月に再建されたものです。
そんな千住神社の境内には、太平洋戦争中に造られた防空壕が千住神社歴史保存会により保存されています。
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城北大空襲の際にも使用されたであろう防空壕。
千住神社歴史保存会の説明板には「これで身体を守ってきました」的なことが書いてあります。
しかし防空壕は簡易なコンクリートの箱的な壕で、実効性に疑問を感じるものですが、大戦中に造られた民間の壕はこうした簡易なものが多かったという。
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帝都中にこうした簡易な防空壕がたくさん作られたのは、ドゥーリットル空襲の2か月半後の昭和17(1942)年7月2日に内務省防空局が出した「防空待避施設指導要領」の影響が強いとされています。
この指導要領には、防空壕は丈夫なものは不要で、簡単な待避所でよい、焼夷弾が落ちたらすぐに飛び出して消火せよといった内容が書かれていました。
「防空退避」でなく「防空待避」となっているのは、爆撃から逃げるのではなく、焼夷弾で町に火がつくまで帝国国民はここで待てという意味だったのです。
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防空壕の他、境内には第二次世界大戦における大日本帝国のスローガンだったとされている「八紘一宇」の題字が彫られた国旗掲揚台がありました。
八紘一宇は日本書紀にある「八紘(あめのした)を掩(おお)いて宇(いえ)にせむ」を、全世界を一つの家のようにすると解釈したもので、海外侵略を正当化するスローガンに用いられたとされています。
一つの家の最も強いもの、つまり家長が他の弱い家族のために働くべきであり、アジアで最も強い大日本帝国が欧米列強に搾取されている東南アジアを助けようというスローガンでしたが、皮肉なことに国民は一家で最も大事な働き手の成年男性を召集令状で連れて行かれてしまいました。
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八紘一宇のスローガンのもと、帝国国民が一丸となって世界中と戦った第二次世界大戦。
千住神社は第二次世界大戦の戦災によって神輿蔵以外の建物すべてが焼失してしまいました。
境内中央にはその業火をくぐり抜けた銀杏が、焦げ痕をその身に刻みながら「不屈の銀杏」として今も生き続けています。
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千住神社の近くにある寺院にも、このような被災樹木が保存されています。
こちらは千住神社の東南方約400mの位置にある勝林院源長寺の大欅の残骸。
炭化した巨木が、焼夷弾空襲による火災の凄まじさを伝えています。
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こちらは千住神社の東方約200mの位置にある妙智院慈眼寺の被災樹木の銀杏。
慈眼寺も空襲で被害を受けており、被災樹木後方の慈眼寺本堂は戦後の昭和31(1956)年に再建されたものです。
1314年に創建されたという慈眼寺で東京空襲から焼け残ったのは、痛々しい姿を晒すこの銀杏と山門、本堂の敷石くらいだったという。
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被災樹木の隣には、球体に三羽の鳩が止まっている石碑が建っていました。
この石碑は、東京空襲の際に日本軍の反撃で撃墜されたアメリカ陸軍戦略爆撃機B29の搭乗員戦死者の供養のために建立された慰霊碑です。
足立区には保木間高射砲陣地をはじめ複数の高射砲陣地があり、日本軍の攻撃を受けたB29が足立区入谷などに墜落していますが、これは足立区花畑に墜落したB29の搭乗員の慰霊碑で、千住の篤志家などによって建立されました。
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異国の地に散った、名もなきアメリカ軍将兵を弔うB29無名戦士慰霊碑。
しかしながら、日本本土に対する無差別空襲を指揮したカーチス・ルメイが語るように、彼らが非戦闘員の女子供を、そうとわかっていながらやるしかないと思って焼き殺したことは事実です。
国民に到底不可能だった初期消火の義務を負わせた大日本帝国と、無差別攻撃によって敵国の女子供もろとも焼き尽くしたアメリカ合衆国。
支配者たちの間に挟まれた帝国国民は、すべてを焼き尽くす焼夷弾の雨の中を、火叩きや水の入ったバケツを持って待つことしかできなかったのです。
(訪問月2019年8月)