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栃木県宇都宮市の軍事遺跡、陸軍歩兵第六十六連隊跡地を歩いてきました。
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2020年のそろそろ冬になろうという時期、子供たちを連れて宇都宮市にやってきました。
ここは宇都宮市陽東のショッピングモール、ベルモール前のアルパカ広場です。
このショッピングモールではアルパカが飼育されていて、おやつをあげることができます。
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100円のおやつを買ってアルパカに食べさせる子供たち。
帝都・東京からそんなに離れているわけではありませんが、秋の終わりの宇都宮は寒いですね。
だからこそ、南米アンデス地方の標高3000メートル以上の高地に棲むアルパカも元気なのかもしれません。
キャプチャ
さて、上の地図は明治42(1909)年ころの宇都宮駅西側を表す地図です。
各所に「兵営」の文字が見られる通り、アジア・太平洋戦争の敗戦まで宇都宮駅西側は、陸軍第十四師団司令部を始め、歩兵第六十六連隊、騎兵第十八連隊、輜重兵第十四連隊、野砲兵第二十連隊など多数の陸軍部隊が駐留する「軍都」でした。
敗戦により軍が解体されると、宇都宮の広大な土地を占めていた軍用地は公共施設や市営住宅などに転用されています。
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こちらは宇都宮市若草二丁目の若戸通り、栃木県警察学校の北東に位置する通用門前です。
通用門の門柱は古びた煉瓦で構築されており、この門柱は陸軍歩兵第六十六連隊兵営の通用門跡であると言われています。
中野の旧警視庁警察学校府中の警視庁警察学校もそうですが、多くの警察施設の例に洩れず、栃木県警察学校も旧軍用施設の跡地に作られたようです。
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栃木県警察学校の南側には宇都宮中央女子高等学校がありますが、ここも陸軍歩兵第六十六連隊の跡地です。
陸軍歩兵第六十六連隊は明治40(1907)年宇都宮への陸軍第十四師団移転に伴い、明治41(1908)年に設立された歩兵連隊です。
大正14(1925)年の宇垣軍縮により同連隊が廃止されると跡地は栃木県師範学校に引き継がれ、敗戦後は宇都宮中央女子高等学校が移転してきました。
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門の先に見える赤レンガ造りの建物「宇都宮中央女子高校赤レンガ倉庫」は、陸軍歩兵第六十六連隊の厨房関係施設として建設されたもので、宇都宮に残る軍事関係施設のうち、唯一の明治期の建物です。
陸軍歩兵第六十六連隊は廃止後、日中戦争が勃発した昭和12(1937)年に再編成され、同時期に宇都宮で編成された特設第114師団隷下で中国大陸に出征し南京攻略戦などに参戦しました。
陸軍歩兵第六十六連隊第一大隊はその戦闘詳報で「旅団命令により捕虜は全部殺すべし。其の方法は十数名を捕虜し逐次銃殺しては如何」という報告をしており、南京攻略戦において捕虜を殺害した可能性が指摘されています。
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宇都宮中央女子高校赤レンガ倉庫前から南東へ約200m進み、宝木若草歩道橋交差点を左折して国立栃木医療センター附属看護学校方向へ約350m進むと、右手に民家と看護学校敷地の境界に軍用地境界標石が残っています。
「陸軍」と読める軍用地境界標石で、陸軍第十四師団司令部の軍用地境界標石と言われています。
現在の国立栃木医療センター附属看護学校及び国立病院機構栃木医療センターの敷地は、歩兵第六十六連隊の上部組織だった陸軍第十四師団司令部や宇都宮陸軍衛戍病院があったところでした。
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国立病院機構栃木医療センターの敷地南西角には、今は使われていない謎の門柱が残っています。
このレンガ造りの門柱は、陸軍第十四師団司令部の門柱だと言われていますが、どこにもそれを示すものはありません。
門柱の幅から考えて通用門でしょうか。
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続いて、こちらは国立病院機構栃木医療センターから南へ約1.6km、宇都宮市桜二丁目の大通り沿いにある月極駐車場です。
この月極駐車場を囲う古い塀は、旧陸軍の軍用地境界塀であるとされています。
この場所にはかつて、宇都宮地区にて軍の内部事情や情勢などが漏れないよう取り締まる陸軍組織、陸軍宇都宮地区憲兵隊の本部があったと言われています。
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軍用地境界塀と歩道が接するところには、軍用地境界標石が途中で切断されたものと思われる遺構も残っています。
大日本帝国における憲兵といえば、一般民衆の思想取締りや治安維持といったイメージが強いですが、戦時には軍将兵の戦争犯罪の取締りや捕虜取扱い、占領地の治安維持などの任務も担っていました。
前述の歩兵第六十六連隊が参戦した南京攻略戦は、しばしば日本軍による残虐行為が取り上げられますが、これは当時の日本軍(中支那方面軍)の配属憲兵が非常に少なかったことが原因の一つにあげられています。
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こちらは先ほどの軍用地境界塀から月極駐車場を挟んだ向かい側にある、憲兵隊本部通用門の門柱。
中支那方面軍が南京を陥落させた当初、日本軍将兵による戦争犯罪を取締るべき日本軍憲兵は一人も南京にいなかったという。
これはもともと数の少なかった中支那方面軍の憲兵が、上海を始めとする日本軍の占領都市の治安維持のために残置されてきたためで、これが日本軍将兵の戦争犯罪を急増させ、南京攻略戦は捕虜の殺害などが横行する凄惨なものになってしまったと言われています。
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宇都宮憲兵隊本部から大通りを約1km西へ進んだ読売旅行宇都宮営業所横には、さらに別の軍用地境界塀が残されています。
こちらには宇都宮地区憲兵隊の分署(派出所)があったそうです。
本部から1kmというかなり近い距離にある派出所で、当時の内地憲兵隊は、まるで今の交番のようにあちこちに配置されて目を光らせていたんですね。
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軍用地境界塀と歩道の境目には、「用地」とだけ読める軍用地境界標石が残されていました。
南京で日本軍による殺戮が行われている最中、国内では憲兵隊によって、侵略戦争に反対する団体や個人に激しい弾圧が加えられていたという。
戦場で戦争犯罪を取り締まるべき憲兵隊が不足する中、内地の憲兵隊は、大義なき侵略戦争に対する批判的言論・文書の取締りを厳しく行い、侵略戦争の実態を国民の眼から遠ざけていた、と言われています。
(訪問月2020年11月)