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中央区築地の軍事遺跡、海軍経理学校跡地を歩いてきました。
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かつて築地中央卸売市場が設置され、今も観光客で賑わう築地場外市場にやってきました。
築地中央卸売市場は、戦前の昭和10(1935)年から2018年10月6日まで83年間に渡って使用された公設の卸売市場です。
卸売市場が豊洲に移転したことで築地場外市場もなくなるのかなと思っていましたが、普通の観光地として残りました。
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築地中央卸売市場跡地と築地場外市場、東京国税局、朝日新聞東京本社、国立がん研究センター中央病院などがあるこの付近一帯は、かつて大日本帝国海軍の軍用地でした。
築地中央卸売市場は、関東大震災によって壊滅的な打撃を受けた日本橋魚市場が、水運・陸運に恵まれていた築地の海軍省所有地を借り受けて臨時の東京市設魚市場を開設したのが始まりであるという。
アジア・太平洋戦争で大日本帝国が滅亡し、連合国軍が日本に進駐すると築地中央卸売市場も一部接収され、GHQバスモータープールやGHQランドリーとして使われました。
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築地魚河岸海幸橋棟の屋上テラスからは、10日後に開催を控えた東京オリンピック2020でバスターミナルとなる予定の築地中央卸売市場跡地が見渡せます。
ここには関東大震災(大正12年)前まで、海軍兵学寮(明治4年まで)、海軍大学校(明治21年から)、海軍軍医学校(明治41年から)といった海軍施設が置かれていたという。
海軍大学校や海軍軍医学校の建物が震災で焼失し、同地に魚市場が移転してくると、海軍軍医学校は海軍参考館が置かれていた現在の国立がん研究センター中央病院の場所に再建されました。
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新大橋通りを挟んで、築地場外市場に隣接する国立がん研究センター中央病院の敷地にはそのことを知らせる石碑が残されています。
「海軍兵学寮址」と「海軍軍医学校跡」の碑で、海軍兵学寮は明治4(1871)年から明治9(1876)年まで(その後、関東大震災まで海軍参考館)、海軍軍医学校は関東大震災からアジア・太平洋戦争の敗戦で海軍が解体されるまでこの場所にありました。
太平洋戦争の敗戦後は、隣接していた東京市立築地病院とともにGHQに接収されアメリカ陸軍第49総合病院新館として使われています。
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二つの石碑の隣には、橋の欄干みたいな古い石柱と柵が遺されています。
都心環状線銀座料金所を作った際に地面が切り下げられたのか、あるいは高速道路との高低差を作るためにこちら側が盛り土されたのか、土中にめり込んだみたいな形になっています。
古そうですが、これはひょっとすると当時の遺構なのかもしれませんね。
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築地場外市場の東側には晴海通りが走っており、晴海通りと波除通りが交差する築地六丁目交差点には中央区教育委員会の設置した「軍艦操練所跡」の解説板が立っています。
特に史跡があるわけではありませんが、明治からさらに時代を遡った幕末に、黒船来航に危機感を抱いた江戸幕府が海軍士官を養成するため、この地に海軍教育機関を置いたことを解説するものです。
明治時代になると、今度は大日本帝国がこの地に海軍省を置いたことから、築地は海軍発祥の地であると言われています。
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築地六丁目交差点から晴海通りを勝鬨橋方向へ歩いていくと、勝鬨橋のたもとにかちどき 橋の資料館が見えてきます。
訪問時かちどき 橋の資料館は、新型コロナウイルス感染症対策のため臨時休業中でした。
資料館のあるこの一角は、かつて海軍の主計課要員を養成する海軍経理学校が置かれていました。
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かちどき 橋の資料館前には、そのことを知らせる海軍経理学校の石碑が建立されています。
碑文によると明治40(1907)年に港区の芝で創設された海軍経理学校は、昭和7(1932)年にこの場所へ移転してきたという。
太平洋戦争の敗戦後はGHQに接収されて米軍の憲兵隊が駐屯するキャンプバーネスとなり、そのあおりを受けたのか晴海通りを挟んで向かい側にあった日本冷蔵株式会社の建物も接収されてGHQ製氷工場となっていたようです。
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海軍経理学校の碑の先には、国の重要文化財にもなっている有名な二葉跳開橋「勝鬨橋」が見えます。
勝鬨橋は、明治38(1905)年1月18日に日露戦争の旅順陥落祝勝記念として、有志により設置された築地と月島を結ぶ「勝鬨の渡し」に由来して、昭和15(1940)年6月14日に竣工した橋です。
不可能に思われた日露戦争の勝利は、日本中に様々な戦勝記念物を作り出しましたが、同時に鋼の意思さえあればいかなる不可能も可能にできるのだ、という精神主義を生み出す結果にもなってしまいました。
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第二次世界大戦中の大日本帝国は、日露戦争の勝利にとらわれ、海軍は大艦巨砲主義、陸軍は白兵突撃主義に固執し、国民も「ほしがりません勝つまでは」「一億総火の玉」というばかげた精神主義に支配されていました。
その結果突き進んだ太平洋戦争に敗北すると、都心の要衝にあった中央区は、聖路加病院や明石国民学校を始め焼け残った施設が次々とGHQに接収され、それは築地も同様でした。
海軍発祥の地である築地が、敵であった米軍の将兵の跋扈する地になっていったことを、この戦争を生き残った人々はどう感じていたのでしょうか。
(訪問月2021年4月)