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茨城県稲敷郡美浦村の軍事遺跡、鹿島海軍航空隊跡を歩いてきました。
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子供たちを連れて、茨城県美浦村の美浦村週末カフェにやってきました。
美浦村週末カフェは、霞ケ浦湖畔にて土日の晴れの日限定で営業している半屋外のカフェです。
旧日本海軍の水上機練習基地だった鹿島海軍航空隊の自動車庫跡を利用したカフェとのことで、一度来たいと思っていました。
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自動車庫内に設けられた飲食スペースにて、出店しているキッチンカーで買ってきたたこ焼きに食いつく子供たち。
鹿島海軍航空隊は日中戦争中の昭和13(1938)年、水上機の搭乗員訓練のために霞ヶ浦の南岸に開設された練習航空隊です。
霞ヶ浦湖岸に水上機用の滑走台が設けられ、予科練出身の飛行練習生が93式水上中間練習機で猛訓練を行っていたという。
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子供たちに飯を食わせながら自動車庫内を見学していると、無造作に転がっている謎の物体を発見しました。
よく見ると赤い方は中央に「消火栓」と書かれており、その上に海軍のマークである錨と二重波線が見えます。
これは鹿島海軍航空隊の基地内で使われていた消火栓を、どこかから引っこ抜いて持ってきたもののようです。
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美浦村週末カフェの周辺には、鹿島海軍航空隊の遺構がいくつか残っています。
まずは県道120号線をやってきて、美浦村週末カフェと国立環境研究所との分岐点付近に一基だけ残されている鹿島海軍航空隊隊門の門柱。
重厚な門柱にはかつて門標をはめ込んでいたと思われる痕がありましたが、今は何も書かれていませんでした。
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門柱から南側へ向かって航空隊敷地を遮断するように、古い塀が続いています。
この塀は航空隊開設当時から、航空隊敷地を隔てていた軍用地境界塀と思われます。
この塀の向こう側が今は、美浦村週末カフェの駐車場になっています。
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塀が切れた先にはいかにも軍事施設らしい、武骨なコンクリート造りの建物が立っていました。
この建造物は鹿島海軍航空隊の軽油庫だったそうです。
建物自体は今も活用されているようで、空いたスペースに車が止まっていました。
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軽油庫前には元鹿島海軍航空隊の跡記念碑があり、鹿島海軍航空隊についての碑文が刻まれています。
練習航空隊だった鹿島海軍航空隊ですが、アジア・太平洋戦争では日本本土防衛のために哨戒、索敵、迎撃任務に従事し、未帰還機や空中戦での戦死者を出したことが記載されています。
戦争も末期になると沖縄沖へ迫った連合軍艦隊への特攻隊も編成され、敗戦まで鹿島海軍航空隊在隊者だけでも数十名の犠牲者がでたという。
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美浦村週末カフェの東側にも、正面に見える鹿島海軍航空隊司令部庁舎をはじめいくつかの航空隊関連施設が残っていますが、こちらは立ち入り禁止の金網が張り巡らされていて近付くことができません。
戦後の昭和21(1946)年、鹿島海軍航空隊跡地は東京医科歯科大学霞ヶ浦分院として再利用されることになり、この病院は1997年まで運用されていました。
霞ヶ浦分院では当時、まだまだ患者が多かった結核の診療が行われていたそうです。
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廃院に伴い廃墟化した東京医科歯科大学霞ヶ浦分院の本館(鹿島海軍航空隊司令部庁舎)は、その不気味な外観が近年の廃墟ブームと相俟って、廃墟好きの間では名の知られた物件になってしまいました。
旧日本軍の施設であり、のちに結核を治療していた病院の廃墟でもあるという特異な事情からこの施設は心霊スポットにもなってしまい、不法侵入する人が後を絶たなかったとか。
そのため敷地を囲う金網にはアルソックの看板がついており、今も厳重に警備されています。
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旧霞ヶ浦分院の入院患者は、鹿島海軍航空隊の兵舎を改造した複数の病棟に入院していたという。
それら病棟はもう残っていないようですが、東京医科歯科大学霞ヶ浦分院本館廃墟の北側、東側一帯には建物の土台や、病棟として利用されなかったと思われる軍事遺跡が今も残っています。
跡地に残るこの無骨なコンクリート製の建造物や石柱は、鹿島海軍航空隊のものかと思われます。
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こちらは赤錆に覆われたトタンが目立つ、鹿島海軍航空隊の汽缶場跡と言われるボイラー室の廃墟です。
巨大な煙突が生えているのが特徴的です。
内部には直径2メートルを超える円筒型石炭ボイラーが眠っているそうです。
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こちらは汽缶場跡よりさらに、屋根や外壁の崩壊が激しそうな自力発電所跡。
汽缶場跡や自力発電所跡がある一角は、今は美浦村の管理地となり立入禁止となっていますが、昔は入れたそうです。
そのためネット上には、そのころの内部の写真がアップロードされており見ることができます。
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旧司令部庁舎の前を走る道路の向かい側には、現在はソーラーパネルがたくさん並んでいますが、かつてこの一帯は鹿島海軍航空隊の教練場だったという。
教練場跡の一角には、小隊教練等の際に指揮官が号令をかける号令台が残っていました。
筑波海軍航空隊にもこうした号令台がありましたが、明日の命も知れず、荒れくれ者気質だったという航空機搭乗員に軍紀を維持させるためには、教練は大事な訓練だったんでしょうね。
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生存率の高くなかった日本軍の飛行機搭乗員は、空で死ぬことは当たり前だと信じ、死ぬまで戦うことは当然の義務と思っていたという。
近年鹿島海軍航空隊司令部庁舎はどういうわけか、結核病院と航空隊という本来関係のない二つの歴史が組み合わさって「軍人病院」という名目の心霊スポットになってしまいました。
航空隊基地と結核病院、その二つを結びつけたのは、どちらにも付き物であり、そして今もこの地に残っているかもしれない「死の臭い」であったのかもしれませんね。
(訪問月2021年10月)