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文京区千石の坂道、猫又坂を歩いてきました。
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不忍通りを歩いて、文京区千石の猫又坂にやってきました。
千石二丁目と千石三丁目の間を通る猫又坂の名前は、かつてこの坂下にあった「猫又橋」に由来しています。
猫又橋は、坂下を流れる今は暗渠の下水道になった小石川(千川)に架かっていた橋で、猫又坂は猫又橋に繋がっていたことから猫又坂と名付けられていました。
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猫又坂の道路沿いの緑地には、猫又橋の親柱の袖石が展示されています。
この袖石は大正時代に作られたコンクリート造の猫又橋のもので、かつて猫又橋の上を市電が走っていてそれを支えていました。
昭和9年に小石川が暗渠化され道路の下を流れるようになると、役目を終えた猫又橋は撤去され、親柱の袖石がここに保存展示されることになったという。
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親柱の袖石の隣には、文京区教育委員会が設置した案内板があります。
猫又といえば、人家で飼われていた猫が年老いて妖怪に化けた、というのをイメージしますが、この解説文を見るにあまりその猫又とは関係ないらしい。
ていうか狸の事を猫狸(ねこまた)と読むんですね。狸穴(まみあな)なら知ってますが…
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そんな猫又橋親柱の袖石から不忍通りを挟んだ向かい側は、かつてアジア・太平洋戦争の敗戦の日である昭和20(1945)年8月15日早朝、火の手が上がった場所です。
今はマンションになっているこの場所には、そのころ時の内閣総理大臣・鈴木貫太郎の私邸がありました。
終戦の日の早朝、終戦に反対する佐々木武雄陸軍大尉をリーダーとする「国民神風党」は、終戦工作を進める首相・鈴木貫太郎の私邸を襲撃し、総理は脱出したもの私邸は焼き討ちされたという。
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私邸跡は現在マンションとなっているものの、不忍通りに面するこの石垣は焼き討ち当時からのものです。
「国民神風党」は、私邸焼き討ちの前に永田町の総理官邸を襲撃していますが、官邸を焼き討ちするつもりでガソリンを持っていったものの、どういうわけかそれは火のつきにくい重油だったという。
襲撃部隊は官邸に重油を撒いたものの、火がつきにくく燃え上がる前に消されてしまい、官邸に鈴木貫太郎の姿を見つけることもできなかった彼らは、続いて文京区(当時は小石川区丸山町)の私邸を襲撃、こちらは焼き討ちに成功しています。
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蔦で見えにくいですが、石垣は黒ずんでいる箇所があり、ひょっとしたら火に焦げた跡なんでしょうか。
ただ昔の航空写真などから察するに、マンション横に生えている大木は当時からのもののようで、全焼するような火災ではなかったようです。
襲撃部隊が持っていたのは重油だったというし、そんなに強い火の手があがったわけではなかったのかもしれませんね。
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火をつけた人々は、頼みのドイツが降伏し、仲介を頼んだソ連に裏切られ、アメリカに二つの原子爆弾を落とされた状況にあっても、本当に戦い続けるつもりだったのでしょうか。
猫は人間と違い、基本的に勝ち目がないような喧嘩に挑むような真似はしないと言う。
もしこの猫又坂に、猫が賢くなったという妖怪・猫又がいたとしたら、勝ち目のない戦いを続けるために仲間内で争う人間を愚かと思ったに違いないでしょうな。
(訪問月2022年3月)