千葉県習志野市東習志野の軍事遺跡、支那囲壁砲台跡を見学してきました。
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現在地は上写真の「現在地」の場所、習志野市教育委員会設置の「鉄道連隊演習線跡」の案内板がある、習志野市東習志野です。
鉄道連隊演習線習志野線は、津田沼から千葉に向かう途中、陸軍習志野演習場の中を通っていました。
広大な旧陸軍習志野演習場跡地には、軍事遺跡が残されています。
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東習志野七丁目にある鈴木金属工業の敷地内には、号砲台跡の小塚があります。
この小塚は陸軍習志野演習場の号砲台を記念して築かれたもので、かつてはこの辺りに演習場の号砲舎があったようです。
塚の上には「陸軍省所轄地」と記載のある陸軍習志野演習場の軍用地境界標石が建てられています。
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小塚の手前の柵には、習志野市教育委員会が設置した「号砲台跡」の案内板があります。
号砲台は正午に空砲を撃った場所で、広大な習志野演習場ではこの音によって演習中の将兵に正午を知らせていました。
号砲は「ドン」とも呼ばれ、周辺住民に午報として親しまれたという。
土曜日の半休が「半ドン」と呼ばれるのは、これに由来するという説がありますね。
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こちらは東習志野三丁目の習志野市立第四中学校のグラウンド近くに建立されている「神田隊駐教記念」の碑。
地図によると、この辺りには「高津東廠舎」という、演習にやってきた兵士の仮宿舎があったようです。
石碑に特に解説はありませんが、石碑の裏面には「歩兵大尉神田利吉」や「区隊」の記載があります。
「区隊」とは教育隊の中での班の分け方で、教育隊とは要するに軍隊の中での学校に相当し、今の自衛隊にも教育隊はあります。
このことからおそらく、神田歩兵大尉という人が責任者(教育隊長?)だった、歩兵教育を行った教育隊の記念碑だと思われます。
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神田隊駐教記念碑から東に約200mの位置には、「陸軍演習場内壁」という、中国の家屋を模して造られた砲台のミニチュアがあります。
この建築物は通称「支那囲壁砲台」と言われ、中国の家屋的な砲台を攻略する訓練・研究のために、昭和9(1934)年工兵隊によって習志野練兵場に建設されたものと言われています。
太平洋戦争の敗戦後払い下げられ、今は個人宅の一部として使われています。
支那囲壁砲台
こちらは当時の支那囲壁砲台が写っている絵葉書です。
家屋というより城壁という感じですね。
砲台が造られたのは満州事変(1931)の三年後のことで、この頃すでに軍は支那(中国)軍との戦争に向けて、攻略のための研究を着々と進めていたのでしょうか。
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造られてから90年近く経つというのに、今も堅牢そうなトーチカという感じの支那囲壁砲台。
二階建ての砲台部分には正面に四つ、右側面に四つの銃眼が空いており、死角はありません。
左側面には城壁のような壁が続いていて、歩兵で攻撃するならこの壁を乗り越えての白兵戦といった形になるのでしょうか。
様々な部隊がこの支那囲壁砲台で訓練に励み、攻略方法を研究したのでしょうね。
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絵葉書の左側に位置する城壁の門もしっかりと残っています。
この砲台建設から三年後の昭和12(1937)年7月7日、北京郊外盧溝橋で中国側の発砲を契機として日本軍と中国軍が前面衝突する支那事変(日中戦争)が勃発しています。
日本軍は支那事変を皇軍(日本軍)に対して発砲した暴戻なる支那軍を膺懲する「東洋平和のための聖戦」として戦線を拡大させ、訓練の成果を出せたのか同年12月13日までに中国の首都・南京を陥落させています。
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しかし、日本軍がこの戦争をいかに「東洋平和のための聖戦」と言い五族共和の理想を謳おうとも、中国人から見れば日本軍は自国へ侵入する侵略者以外の何物でもなく、戦争は首都が陥落しても終わらない戦いになり、中国戦線が膠着状態になったあせりが太平洋戦争へと繋がってしまいます。
太平洋戦争中の日本陸軍は、200万の将兵が中国大陸でのドロ沼の戦いとソ連の抑えの為に張り付けにされていて、肝心の太平洋方面には15師団25万人しか振り分けることができず、その戦略的矛盾が太平洋戦争敗北の一因になってしまいました。
日本軍の予想を超えてしぶとく抵抗を続けた中国軍、その攻略のために日本軍が造った演習用トーチカが、今も習志野演習場跡地にできた住宅地の中に残っています。
(訪問月2022年3月)