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北区西ヶ原の軍事遺跡、海軍火薬廠爆薬部跡ほかを歩いてきました。
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子供たちとともに北区立西ヶ原みんなの公園にやってきました。
西ヶ原の住宅地内に突如として現れる、広大な芝生広場がある西ヶ原みんなの公園。
この公園は平成12(2000)年に府中へ移転した東京外語大学西ヶ原キャンパスの跡地に整備された、防災設備のある公園です。
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東京外語大学(当時は東京外事専門学校)が麹町区から西ヶ原へ移転して来たのは昭和19(1944)年のことで、それ以前ここにはピクリン酸を主成分とする炸薬を製造する「海軍下瀬火薬製造所(後に海軍火薬廠製造部第五工場→海軍火薬廠爆薬部へ改称)」がありました。
公園内には、海軍下瀬火薬製造所が明治32(1899)年当地に設立され、30年後の昭和4(1929)年ころに移転していったこと等が書かれている「まちのうつりかわり」の案内板があります。
案内板の後半の方にさらりと、東京外事専門学校がこの地に移転してきてすぐに、新生校舎が空襲で全焼してしまったことが書かれていました。災難ですな。
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西ヶ原みんなの公園北側に建つ集合住宅、パークキューブ西ヶ原ステージから北方へ延びていく路地沿いには、海軍火薬廠爆薬部のものといわれる複数の海軍軍用地境界標石を見ることができます。
以前に訪れた時もこれら境界標石を見ていたはずですが、よくよく見るともっと残っていることに気づきました。
セメントコンクリートで上から塗り固められた感のある、西ヶ原4丁目40番先のこれも、元は海軍軍用地境界標石かと思われます。
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西ヶ原4丁目40番先から北へ約130メートルに渡って、路地の西側にいくつかの軍用地境界標石が見られます。
軍用地境界標石はけっこうしっかりしたもので、わりとはっきり「海軍」もしくは「海軍用地」と読めます。
陸軍の軍用地境界標石と違って頂部に十字の切れ込みがないためか、この軍用地境界標石は「北区地籍調査」のプレートが取り付けられており、今も地籍調査の目印として役立っているようです
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上の地図は、昭和4(1929)年の海軍下瀬火薬製造所付近の地図と現在の西ヶ原みんなの公園の地図を並べたものです(「今昔マップ on the web」より抜粋)。
地図を見て気になるのは、海軍火薬廠爆薬部があった現・西ヶ原みんなの公園と、境界標石が並んでいる位置が若干違うことです。
近接しているとはいえ、北の方にある境界標石は西ヶ原みんなの公園とかなり離れており、ここも海軍火薬廠爆薬部に含めていいのか?と疑問に思いました。
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それともうひとつ、気になるのは、いくつかの軍用地境界標石が、それとは別の境界標石と並んでいる点です。
上二つの海軍軍用地境界標石は、よく見るとすぐ隣に、それよりもっと古く見える境界標石が埋まっています。
これは、本来はなにか別の施設だったものを、後に海軍が使うようになったことを示しているのではないでしょうか。
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境界標石が並んだ小路を北上していくと、やがて緑地帯を土留めした擁壁があるところに出ました。
この擁壁のど真ん中にはかつて通路かなにかがあったらしく、現在その場所には乱雑に石が詰め込まれていて塞がれています。
ここを塞いだ理由はなんだったのでしょうか。
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擁壁の向こうがかつて海軍用地だったことを示すように、塞がれた箇所手前の左右に海軍の軍用地境界標石が残っています。
左ははっきりと「海軍用地」と読める標石ですが、右はぽっきりと折れてしまって根本だけが残っていました。
1基おけば十分だったようにも思われますが、わざわざ2基をこんな近くに置いた理由はなんなんでしょうか。
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正面から見ると、塞がれた箇所と、軍用地境界標石の位置がはっきりとわかります。
また、よく見ると、通路を塞いだ石の中に鍰煉瓦が入っていました。
現在の北区豊島5丁目にあたる場所にかつてあった関東酸曹には製銅工場があり、関東酸曹では銅精錬の過程で生じる副産物「鍰」を固めた鍰煉瓦を販売していました。
そのため、北区周辺では今も路上に鍰煉瓦をよく見かけます。
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擁壁からさらに北上し、道音坂に差し掛かる手前の民家の軒先にも、軍用地境界標石が残っています。
この海軍軍用地境界標石も、明らかにそれより古そうな境界標石の隣に立っていますが、理由はわかりません。
ただこれら海軍軍用地境界標石の位置取りから、旧海軍軍用地は今の西ヶ原みんなの公園から道音坂に至るまでの、かなり広大な範囲だったことがわかります。
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その先には西へ向かって緩やかな上がり坂となっている道音坂と、最近できた道音坂児童遊園があります。
道音坂児童遊園があるところは、数年前まで鬱蒼とした木々と黒い塀、やたら高い擁壁に囲まれた謎の管理地でしたが、近年整備され令和2年4月に児童遊園が開園しました。
ただ斜面地にあるため、階段ばかりの広場のない公園で、園内に遊具もないためあまり児童を見かけません。
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さて、ここでこの地図を見てください。
この地図は2016年の7月に陸上自衛隊十条駐屯地内にあった展示パネルを撮影したものです。
北区(一部板橋)における「旧軍施設」と題した地図で、現在の十条駐屯地を含む東京第一陸軍造兵廠・十条工場同滝野川工場東京第二陸軍造兵廠・板橋工場同王子工場同堀船倉庫東京陸軍兵器補給廠陸軍稲付射撃場陸軍被服本廠陸軍赤羽工兵隊兵営陸軍赤羽火薬庫陸軍赤羽射撃場等、これまでこのブログで取り上げてきた旧帝国陸軍用地が赤く表示されています。
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今回取り上げるのは、この地図の一番下にあるこの軍施設です。
最初この地図を見たとき、これは海軍下瀬火薬製造所(火薬廠爆薬部)の事と思っていたのですが、こんな今の都電荒川線の軌道敷にかかるところまで海軍下瀬火薬製造所であったはずはありません。
この地図で見る限り、この道音坂も軍用地内に含まれているように見え、それだけでなくさっきの海軍軍用地境界標石があったところも含まれているように見えますが、果たしてここに示されている「旧軍施設」とは何なのか、それを探っていきたいと思います。
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というわけで、謎を解明しようと道音坂を西方向へ上がっていくと、牛蒡坂との交差点に到着しました。
右に進んでいく道が牛蒡坂の入り口で、角の隅切りがタイル張りになっているお洒落な建物は、かつてはパン屋さんであったという。
この周辺は江戸時代から昭和初期までにかけて、ゴボウ(牛蒡)、ニンジンの生産地であり、特にゴボウは滝野川牛蒡と呼ばれるブランド農産物だったらしく、それが牛蒡坂の名前の由来になっています。
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都電荒川線の踏切に向けて、緩やかな下り坂になっている牛蒡坂。
周囲は本当にこの辺りがかつて、滝野川牛蒡の生産地だったのかと疑いたくなるような、普通の住宅地です。
滝野川牛蒡は、江戸幕府五代綱吉のころの元禄年間に品質改良で生み出されたもので、根の長さで1メートルもあり、肉質は緻密で柔らかく、スが入りにくい品質で従来のゴボウとは一線を画したという。
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牛蒡坂の先は、都電荒川線の軌道敷を渡す踏切になっています。
向こうには滝野川一丁目の停留場があります。
上の「旧軍施設」地図によれば、この軌道敷も軍施設内ということになりますが、そんなことってあるだろうか?
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踏切を横断するとその先は右への曲がり角になっていて、曲がった先は軌道敷と並行に走る小路になっています。
上の「旧軍施設」地図によれば、この道が本件旧軍施設の北西端になっています。
現在は普通の住宅地で、とてもそんな雰囲気はない…などと思いながら観察してみると、戸建てや集合住宅の駐車場の前に、にょっきりと境界標石が飛び出していました。
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ざっとみただけで、道路の右側に沿って、五つの境界標石が並んでいるのを確認できました。
縁石や塀にくっついているものはまだしも、明らかに道路上にあるものは、ここが住宅地になる前に埋め込まれたもので間違いないと思います。
これら境界標石の位置関係は、上の「旧軍施設」の軍用地北西端の境界ライン上に位置しており、何らかの関連性が疑われます。
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気になるのは、海軍下瀬火薬製造所(火薬廠爆薬部)のものと言われている西ヶ原の海軍軍用地境界標石とは違いますが、その横に寄り添うようにあった境界標石と色や形状が似ているってことですかね。
かなり古いもののように見え、海軍下瀬火薬製造所より前に埋められた境界標石ではないかと思いました。
海軍下瀬火薬製造所の設立が明治32(1899)年のことなので、それより前の境界標石でしょうか。そうすると明治初期?
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江戸時代、滝野川や西ヶ原一帯には、今の滝野川公園のところにあったという舟山茶亭など、幕府の広大な御用地があり、明治政府はこれを官有地としたため、滝野川・西ヶ原はこの官有地のために著しく発展を妨げられることになったという。
今の西ヶ原みんなの公園のところには、江戸時代は広大な幕府の薬園があったとされ、これを明治政府が官有地とし、ここに造られたのが後の海軍下瀬火薬製造所です。
海軍下瀬火薬製造所跡地に隣接するこの付近も、実はもともと官有地で、そこを軍が何らかの形で活用していたのではないかと推測しましたが、それを疎明する資料は何一つないので、推測のまま中途半端な形ですが、ここで記事を〆させていただきます。
(訪問月2022年4月)