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台東区浅草の区立公園、台東区立隅田公園を歩いてきました。
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息子がやっているサッカーの練習試合の付き添いで、台東区の台東リバーサイドスポーツセンターにやってきました。
息子が所属しているサッカークラブは、よく都内あちらこちらの練習場に出向いていき、その地域のチームと練習試合をやっているので、最近はそれに付き合って、都内あちこちのグラウンドに行くことが多くなりました。
この台東リバーサイドスポーツセンターがある隅田公園は、旧日本軍の演習場になったこともあるようで、陸軍の補充兵としてミンドロ島で暗号手をやった小説家の大岡昇平さんは、隅田公園で行われた暗通連合演習に参加したことがあるという。
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戦時中の隅田公園は、1945(昭和20)年3月10日の東京大空襲等により亡くなった人々を仮埋葬した地としても知られています。
そのため公園の一角には、東京大空襲戦災犠牲者追悼碑(戦災により亡くなられた方々の碑)が建立されています。
この隅田公園(台東区側)には、わかっているだけでも1152体の遺体が仮埋葬されたそうです。
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また追悼碑の隣には、空襲による火災によって、黒く変色した言問橋の縁石が置かれています。
言問橋は東京大空襲の際、浅草地区の人と本所・向島地区の人が、ともに橋を渡って対岸に避難しようとしたところ、両者が橋の上でぶつかりあい進退窮まる状態となってしまい、そこへ焼夷弾が落ち、多数の死傷者を出す地獄絵と化していました。
1992年に言問橋の欄干を改修した際に切り取られたというこの縁石のほか、現在も使われている言問橋の親柱には、東京大空襲の際にできた焼け跡が今も残っています。
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国中を焼き尽くした空襲によって、国運をかけたアジア・太平洋戦争が敗戦に終わると、日本の国民生活は混乱を極め、これによって仮埋葬された遺体を掘り出す余裕はなくなってしまいました。
仮埋葬された遺体が掘り出され、荼毘に付されたのは、敗戦から3年が経過した1948(昭和23)年から1951(昭和26)頃までにかけてであるとされています。
期間を経て、ようやく掘り出された肉片はコンビーフやたくあんのような半腐れの状態となっていて、それは凄まじい臭いだったという。
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この場所における掘り出し作業が終了したと思われる1950(昭和25)年になると、この地に「アリの街」と呼ばれた廃品回収業者の共同体が形成されました。
空襲・敗戦によって家や仕事を失った人々は、ガラスくず、鉄くず、縄くず、紙くず等を拾い集めて再生工場へ送る、当時「パタヤ」と呼ばれた事業に従事し、そうした人々がこの隅田公園に寄り集まり、アリのように勤勉に働き、助け合って生活したことから、アリの街と呼ばれたという。
しかしアリの街は形成から10年後の1960(昭和35)年、東京都の立ち退き要請によって江東区深川8号埋立地に移転したとされており、その経緯を記した「アリの街」跡碑が隅田公園に立てられています。
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1960(昭和35)年といえば、ちょうど東京オリンピックのために東京都が環境整備を進めていた時期で、そのために不都合だったパタヤ集落「アリの街」は埋立地に追いやられてしまったのでしょうか。
東京大空襲後、身元の確認もろくにせず迅速な仮埋葬が行われたのも、天皇や国民に無惨な状況を見せて、戦争遂行の障害とさせてはならないという理由からだったというから、戦中も戦後も、日本は国民にあまり優しくない国だったといえるのかもしれません。
暗通連合演習、仮埋葬、アリの街と、その時代によって役割を変えてきたここ隅田公園は、今は美しく整備され、子供たちによるフットサルの対抗試合などが行われる場となっています。
(訪問月2023年1月)