新年明けましておめでとうございます。
昨年で開設10周年を迎えた当ブログですが、驚くべきことに10年間スタイルが全く変わっておらず、動画の流行やAIの活用といった、変わりゆく時代にすっかり置いていかれた感があります。
まあ、それは好きでやってんだから別にいいでしょと思うことにいたしまして、さて新年一発目となる今回は、福井県大野市〜勝山市に広がっていた旧日本陸軍の演習場、六呂師演習場跡です。
子供たちを連れ、福井県大野市南六呂師にある「ミルク工房奥越前六呂師高原の時計台」にやってきました。
この施設は、牧場や湿地が広がるのどかな六呂師高原にあるレストラン&体験施設です。
近くの奥越高原牧場の生乳を使ったソフトクリームなどが味わえ、子供たちはたいへん喜んでいました。
「六呂師高原のソフトクリーム」を味わいつつ施設内を見学していると、掲示板にこんな新聞の切り抜きが貼ってありました。
見出しには「大野の陸軍跡 平和の礎」「六呂師高原一帯」「鯖江三十六連隊が演習」とあります。
この記事によると、六呂師高原一帯は1940(昭和15)年まで鯖江市にあった陸軍歩兵第36連隊の演習場であり、アジア・太平洋戦争中は迫撃第三連隊の演習場、終戦前には米兵ら捕虜の収容所としても使われた場所であったという。
新聞記事には、「六呂師演習場の痕跡」と題した地図も載っていました。
六呂師演習場の痕跡として、六呂師高原一帯には陸軍境界石20本や建物が今も残っているという。
広大な範囲ですので子連れの身で全体を回るのは難しそうですが、この地図を参考に、行けるところにちょっと見学に行ってみたいと思います。
というわけで、地図で「兵舎があったエリア」と赤い〇で囲まれていたところにやってきました。
テラルふれあいロード沿いにあるこのコンクリートの坂道は、かつて演習場の兵舎の正門があった場所だったという。
いまや正門の痕跡は全くありませんが、付近にある桜の老木は、演習場当時からあったものといわれています。
正門跡から西南西へ約75m歩いたところには、六呂師演習場を使っていた陸軍歩兵第36連隊の建物が現存しています。
歩兵第36連隊の演習場が、九頭竜川河口の坂井市三国町新保から六呂師高原に移転してきたのが1929(昭和4)年のことだったというから、その時代からの建物と思われます。
鯖江歩兵第36連隊の兵士は、鯖江~六呂師間の片道55㎞を軍装で行軍して鍛えるとともに、六呂師高原では戦闘射撃や突撃演習、スキー訓練、防毒訓練などを行っていたという。
この建物の入り口上部には「ワンゲル六呂師山荘 福井大学ワンダーフォーゲル部OB会」と記載された表札がありました。
現在も現役の施設のようで、福井大学ワンダーフォーゲル部OB会のホームページによれば、この施設は「敗戦後、開拓移住者に譲渡されたもののよう」とされています。
譲渡後、スキー場の走りとして六呂師高原スキー場が賑わっていたころは民宿として活用されたようですが、交通の便が良くなり、他に新しいスキー場ができるにつれ民宿としても寂れてしまい、現在に至っているようです。
陸軍の演習場だった当時、この建物は軍馬を収容していた「厩舎」だったという。
「軍馬」とは、将校乗馬、部隊保管馬、軍馬補充部保管馬及び貸付予備馬を総称したものであり、その用益は、乗馬、輓馬及び駄馬の三つに区分されます。
乗馬(騎馬)は将校や騎兵が乗りスピード重視、輓馬は砲兵が使う野砲を曳く輓曳能力重視、駄馬は各種地形を踏破して軍需物資を運搬する負担能力・持久能力重視の馬であるところ、六呂師高原を使用していたのが歩兵連隊で、高原まで上がってくるのが一つの訓練であることから、厩舎を使っていたのは駄馬が主であったと推測されます。
鯖江歩兵第36連隊が1940(昭和15)年に鯖江から満州へ移駐すると、1943(昭和18)年から1945(昭和20)年まで化学兵器も扱う「迫撃第三連隊」が鯖江に置かれ、この部隊は相当数の毒ガスを所有していたという。
迫撃第三連隊は毒ガスを、六呂師演習場までそれと分からないように運び、現場にも監視を立てて秘密裏に訓練を行っていたと伝えられています。
ひょっとしたらこの厩舎を使っていた馬も、毒ガス運搬に駆り出されていたかもしれませんね。
(訪問月2024年8月)
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