千葉県浦安市の地域歴史博物館、浦安市郷土資料館を歩いてきました。
今や東京ディズニーランド・ディズニーシーが有名な浦安市ですが、かつては漁業の盛んな漁師町でした。
浦安市郷土資料館は、かつて漁業の町であったころの浦安の生活文化を知ることができ、様々な昔の生活体験ができる体験型博物館です。
博物館見学順路の序盤にあるテーマ展示室「海とともに」の「漁師町浦安」のコーナーでは昔の器具が展示され、かつての浦安で盛んだった漁業・海苔養殖・貝加工、稲作やハス作りなどのなりわいを見ることができます。
こちらはテーマ展示室「浦安の自然」コーナーにあった東京湾の魚を入れた大きな水槽。
グリーンライトで水槽があまり美しく見えないのは、東京湾があまりきれいでないことと関連しているのでしょうか。
このコーナーでは、幻の魚「アオギス」が東京湾に生息していたころの貴重な映像も見ることができました。
しかし浦安市郷土資料館の展示の目玉は、昭和27年ごろの漁師町「浦安」を再現したという屋外展示場「浦安のまち」です。
屋外展示場には、暮らしの中心であった清流「境川」を模した池があり、その向こうに昔の家が建ち並んでいます。
この境川沿いに建つ「漁師の家」は、明治後期ごろの建築物「旧吉田家貸家住宅」を移築したもので、浦安市指定の文化財です。
屋外展示場には船宿、海苔製造場、豆腐屋、天ぷら屋など全部で八棟の建物があり、建物の中に入ることもできます。
写真中央の建物は「魚屋」であるところ、堀江のフラワー通りに面して建っていた1905(明治38)年ごろの建築物「旧太田家住宅」を移築したもので、浦安市指定有形文化財です。
1階正面のL字型の土間では行商人相手に「久清」という魚屋が営まれ、ここでは築地から、浦安ではとれないような魚やはんぺんなどの練り物を仕入れて販売していたとのことで、浦安ではこのような商売を「カシケーダシ」というそうです。
こちらは屋外展示場の中で唯一の千葉県指定有形文化財「浦安の三軒長屋」のうちの一軒の室内。
堀江三丁目から移築したこの建物は江戸時代末期ごろの建築物とされ、一軒は九尺二間(間口が九尺・奥行き二間)、六畳一間の狭い空間。
隣家とのプライバシーなんかなさそうですが、一応隣とは屋根まで続く土壁によって仕切られています。
最後は、1926(大正15)年の建築という煙草屋「旧本澤家住宅」。
店の正面はガラス戸になっており、二階にも窓が多く開放的な造りで、大正末期~昭和初期の標準的な商家のスタイルであるという。
現役当時は煙草のほか、日常雑貨をおき、おばあさんが店番をしていたそうです。
煙草屋のショーケースには、桃山、アストリア、ききょう、みのりなどの名がついた見慣れない煙草が置かれています。
1952(昭和27)年ころは、このショーケースにある「光」、「朝日」、「新生」などの両切り煙草がよく売れていたそうです。
両切り煙草とは、刻み煙草を紙巻にして、両端を揃えて切断したものをいい、漁師もこの持っていきやすいこの両切り煙草を持って漁に行っていたという。
アジア・太平洋戦争の戦記小説でもたまに登場するこの「朝日」は、1904(明治37)年から1976(昭和51)年までにかけて売られたロングセラー煙草でした。
今と違って喫煙は男のたしなみとして当たり前のことであり、多くの日本軍将兵にとって必須のものであったことから、内地から前線へ送られる慰問袋には煙草を入れることが奨励されていました。
しかし日本軍将兵は、突撃をする前に最後の一服をすることがよくあり、位置がバレてしまうこの行為は日本軍の欠点であり弱味でした。
日本軍の軍用煙草といえば「ほまれ」であったところ、ほまれが「兵隊向けの安煙草」「中身がスカスカ」だったとされていたことに対し、こちらの「光」は市販のもので、将兵には贅沢品でした。
戦況が悪化し物がなくなってくるとこの「光」をヤミで手に入れることもできなくなり、とある部隊の大隊長であった士官学校出の若い将校が、この「光」を手に入れるため、部下の経理少尉に「『光』を毎朝3個ずつ「購入スベシ」」という正規の大隊命令を出してその購入に奔走させたことがあったという。
これは形式上では部隊命令であったものの、実際は上官個人が命令権を私有化して下した「私物命令」であり、このような私物命令は若いエリート将校ほどひどかったそうです。
アジア・太平洋戦争が日本の敗北で終結し、敗戦の年の翌年である1946(昭和21)年1月13日に発売された煙草「ピース」。
その名の通り、平和を願った煙草ですが、時代背景を考えると敗戦ですっからかんになってしまった国の財政再建のための煙草ですかね。
こういった小道具もあちこちに配置された浦安市郷土資料館の屋外展示場、なかなかにおすすめなところです。
(訪問月2024年9月)
コメント
コメント一覧 (2)
ネットサーフィン(こんなWordは今や死語?)
していたら、こちらのサイトに辿りつきました。
とても興味深い内容で愉しませて頂きました。
震災あと耐震強化など街の整備や再開発で歴史
というか年季をしのばせる面影あるものが次々と
失われて少し寂しいものを感じています。
が…これも避けられない事なのでしょうね。
管理人さんのblogまたは記憶の中で
今でも都内で昔の地名とか住所や
番地の表記が残っている(あれはホウロウ製
かな?青色に白い文字)所があれば
おしえて頂けますでしょうか。
自分が若かりし頃は数少なく飯田橋駅近くの
個人宅の表札で麴町區◯◯
六本木の中心から離れた建物に
麻布區◯◯などと表記されたものが有った
気がしました。
古い地名を目の当たりにするとなると
公園名や信号機とかの標識の交差点名
くらいでしか見かけなくなってしまった
様なので…。
はじめまして、コメントありがとうございます。
私も街が真新しいものばかりになっていく中で、たまに古い味のあるものを見つけると嬉しくなってしまいます。
昔の住居表示の話ですが、今、私の記憶に残っているものとして、都内では
南大塚2丁目にあった
https://teitowalk.blog.jp/archives/25113048.html
と、北区栄町の
https://teitowalk.blog.jp/archives/80664767.html
ですかね。また思い出したら追記します。